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La Lune Lunatique

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「レナード現象には理由がある」と無意識の差別

遅ればせながら、川原泉の新作が久々に出ていると知り、購入した。
一通り読み終えた後、この本の中の一話が、ホモフォビア云々で一部で問題視されていることを知った。

作品全体は、久々の川原節、というか、まぁ絵柄は若干変わったけれど、長いスランプ(だったのでしょう、多分)を抜け出して、あの川原泉独特のほんわかしたムードを味わうことができるものだった、と思う。アマゾンの書評もおおむね好意的だ。
まぁ、正直、傑作!とまでは思わないし、マンネリ、という捉え方もあるかもしれないが、どんな漫画家だって、万人にとっての傑作をずっと生み出し続けるわけではないのだし、川原作品の新作が、安定したレベルで読めるだけで嬉しい、という人もいるだろう。

ただ、ネットでの書評をいくつか巡ると、確かに、ゲイへの蔑視、更には「偏差値の可愛い」学校の女生徒への差別的なまなざし、という問題は、この作中に明らかに存在していると思う。
けれども、それは、一読して不快に感じる人もいれば、「そう言われれば確かに…」という感想しか持てない人もいるだろうな、というレベルだ。足を踏まれた痛みが、踏んだ側にも、踏まれた人の隣に立っている人にも伝わってこないことに似て、差別というのは往々にして、差別された側に近い人、あるいはよほど、差別に対する意識が高い人にしか感じ取れない場合があると思う。

一方、差別する側の意識は、私の仮定では、3つに大別できると思う。
まず、自分でも、自分のやっていることが差別だ、と認識している人。(実際のところ、そんな人がどれほどいるのか分からないが。)
次に、自分のやっていることが差別だと言われるのではないか、とは認識しつつも、「これは差別ではなく、○○という理由に基づいて、合理的に区別しているだけだ」という正当化をしている人。例えば、昔、西洋では「黒人は劣っていると聖書に書いてあるから自分たちが上に立って教育してあげないと」みたいなことを真顔で語る人がいたとどこかで読んだけれど、そういう類の話。
最後に、自分のやっていることが差別だ、と、全く気づいていない人。

今回の作品における川原泉は、きっと3番目に属するのだろう。では、その差別意識はどこに由来するものなのか。

この問題を取り上げているブログ等で既に指摘されている通り、ごく一部の作品を除けば、川原は、男女の生々しい性というものを一切描かない、どころか匂わせもしない作家だ。高校生の恋愛を描いて、キスシーン一つ登場しない、そもそもそんなことを欲望しない登場人物たちの少女漫画。恋愛を描いて、というか、そこに描かれているものは、微妙に「恋愛未満」の感情である。そこがいい、とするファンも多かろう。
今回の作品中には、珍しく、朝帰りする男の子なんてのが出てくるけれど、そんな設定があるにもかかわらず、作品からは性的な匂いは一切漂わない。昔、川原は、自分に男性経験が全くないということをコミックスに書いていたけれど(そんなことなんでわざわざ公衆に告白するの、と、読んだこっちがうろたえた)恐らく、彼女はかつて、自分の中から、性的なものを抹消したい、自分を性的存在とは認めたくないという少女だったのではないか。
そういう時期を持つ少女はかなりいるだろうし、そして、そういう少女の一定割合は(偏見を承知で言うと)ボーイズ・ラブ、やおいに流れるんじゃないかと思うのだけれど、川原はそうはならなかった。あくまで「ボーイ・ミーツ・ガール(レナード…の帯より)」の世界を描きながら、あるいは「将来、結婚して子どもを持つ主人公たちの未来」まで示してみせながら、しかし、そこにいるのは、性的には「王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしました」の幼児童話レベルの男女でしかない。

で…性への嫌悪がホモフォビアに結びつくのでしょうかね…?そのあたりは、分かるような、分からないような、なんですが。(やおいにあまり詳しくない私ですが、やおいとかBLとか言われる作品群には性的描写を含むものが多そうに思えるんですけど、それはそもそも何故なんでしょうね?それとこれとは関係が…ある?)

もう一つの、ユリアナ高校(だっけ)の女生徒の扱われようについては、こちらはなぜそうなるかが、分かるような気がします。(気がするだけかもですが。)
以下は全く、私自身のことを書いているので、川原泉がこうだ、という根拠など全くないのですが、自分の女性性に自信が持てない女の子が、「自分はお勉強ができる」というアイデンティティに逃げ込むのって、あるんじゃないかと思うのですよ。というか、私がそうだった、ということですが。で、この場合の「お勉強ができる」ワタシが思う、「可愛い偏差値の学校の子」ってのは、もう、女性性というか、男性から、性の対象と見られる女性のイメージそのもの、になるわけです。それを嫌悪する&私はあなたたちとは違うのよ、という認識で、自分を守っているつもりになるわけです。(でも、守るって、何から、なんだろう?)
ただ、この「お勉強ができる」は、あくまで、まぁどこかの国公立大学に進学できる、ぐらいのレベルなものですから、別にガリ勉(すごい死語…)してるようでもないのに、東大とかにあっさり(と見える)合格していった同級生たち、などという人に対して、これまた複雑な思いがあったりもするわけです。自分より上にいる(と思う)人へのコンプレックスが、自分より下だと思う者への差別意識に反映されるって、よくあることなんじゃないでしょうか?(あくまで私の場合、のことを書いてるんですが、自分の中にある差別意識を省みると、そうじゃないか、と思うわけです。)

多分、差別意識から全く自由になれる人はいないと思います。だからといって、差別を正当化できるわけじゃない。誰かを見下すまなざしを、ともすれば自分が持ってしまうのは何故か、を振り返ることで、実際に誰かを差別する行為に出たり、差別的な言動をしようとしてしまう自分に歯止めをかけなければ、という、まぁ当たり前のことを、改めて考えさせられた出来事(?)でありました。
特に、公共の出版物として流通するものはね…あまりにも無自覚に差別意識を垂れ流すのを放置するのはまずいでしょう…。もっとも、この方面への川原の無自覚さというのは、かつて「士農工商編集漫画家」なんてフレーズを漫画に書き込んだことから、十分うかがい知れることではあるのですが…。って、あれこれ勝手なこと書きましたが、「三月革命」とか、好きだったんだけどなぁ…。

(ただし、私は、笑うミカエルの司城史緒と兄ちゃんのその後話だけは、どうにも受け付けられません。自分にも兄がいたらよかったのに、というある種のブラコンをどこかで刷り込まれた身としては、基本的にブラコンは嫌いじゃないのですが、あれはダメだ…)


このエントリーにあたっては、下記のブログを参考にさせていただきました。

ハナログ 川原泉「真面目な人には裏がある」
▽架空の杜△ 川原泉の保守性は批判されるべきものでしょうか?
反・反ヤンキー主義宣言 川原泉「レナード現象には理由がある」
by mmemiya | 2006-09-11 20:50 | 日々雑感