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La Lune Lunatique

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メメント・モリ

死ぬのが怖くない、という人は、そりゃあまぁいないんだろうけれど、私は時々、夜眠るときに、自分が死ぬとき、どんな痛みや苦しみを味あわなければならないか考えて、眠れなくなってしまうことがある。

子どもの頃は、体のどこかが痛いだけで「怖い病気じゃないか」と思ったりしたものだが、まぁこの年になって、さすがにそれはあまり考えなくなった。でも、今は車を毎日運転しているから、いつ事故にあったっておかしくないし。

病気が怖かったのは、小学校高学年とか中学生とかの時に、やたらに闘病記が家にあって、そういうのを読んでいたからだと思う。今でもタイトルだけは覚えているけど、「翼は心につけて」とか「さらば茨戸の湖(うみ)よ」とかの、がんの闘病物。あ、「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」もあった。なんであんなにその手の本があったのか謎だ。恐らく、ベストセラー物が大好きな祖母が買った本がまわってきてたんじゃないかと思うけれど。

時々思うのだけれど、そもそもいつかは死ぬのに、なぜ、生き物って存在しているのだろう。生きて子孫を残して、死ぬとその子孫が子孫を残し、の繰り返し。文化が残っているとかなんとかかんとか言われても、結局のところはただ、生まれては死に、の繰り返し。どんな生き物もそう。どこまで進化してもそう。その先に何があるわけでもないのに、ただ命は生まれて死んでいく。神様がいらっしゃるとしたら、いったい、何を考えて、生命なんてものをおつくりになったんだ?

死への恐怖心からなのか、時々、「どうせ死ななきゃならないのに、なんで生まれてこなきゃいけなかったんだ?」と思う。だからといって、自分でわざわざ死のうとは思わないのは、痛みとか苦しみへの恐怖心が強いからなんだと思うが。大体、私が高所恐怖症なのは、「次の瞬間にこんな高いところから落ちちゃったらどうしよう。」と思っちゃうからなんだし。

先日読んだ本に、「現代の人々は、死について考えることをタブーにしてきたから、<死>というものがよく分からずに自殺を図る子どもが増えているのではないか」みたいなことが書いてあった。確かに、今の日本じゃ死ぬ場所はほとんど病院だし、死ぬなんて不吉なことでそうそう口に出しちゃいけないような雰囲気があるし(子どもにうっかり、「危ないよ、死んじゃうよ」などと言ってると、子どもがとんでもない場面で無邪気に「死んじゃう?」とか言い出すので、親としては焦ったりする訳です)、そんな中では、まぁ確かに、時折、自分は死すべき存在である、ということ、そしてそれがどんなことなのか、じっくり考えてみることも必要なのかもしれない。でもその結果が私みたいに無常観にとらわれるというのは一体どうしたらいいのか。考えが浅すぎるのか。なんかどっかが根本的に間違ってるのか。

日々をけっこう享楽的に過ごしている私だけれど、時々、生きていることが先述のように「(広い意味で)意味のないこと」に思えて、「死すべき存在だからこそ、生がいとおしい」という心境には、まだまだ中々至れない。これは、身近な人をまだあまり送ったことがない、結局、観念でしか死というものを考えていない、ということにも関係しているのかもしれないが。

<死>を考えるのなら、「自分がいつか死ななければならない」ということを受け止めるだけでなく、「身近な人の死をどう乗り越えていかなければならないか」ということも考えなければならないのだろう。重いテーマなのだけれど、この世の誰一人、無関係ではありえないテーマ。子どもとどう語り合っていくべきなのか、それはまだ分からないけれど、誰かが自死を選んだ、というニュースは、それが子どもであれば尚更、胸が痛いことだけは確かだ。

ところで、「メメント・モリ」とは、そもそも古代では、「明日はどうなるか分からない、自分がいつか死ぬべき存在であることを忘れるな」という意味合いではなく、「死んだらもう楽しむことはできないのだから、今を楽しもう」という意味だったのだそうだ。
とりあえず、死ぬことが怖いのは、それはもう仕方ないとして、やっぱり、生まれてしまった以上は、一日一日を楽しまなければしょうがないんでしょうね。自分ひとりだけでなく、自分と関わる人たちとの関係においても、できるかぎり。
by mmemiya | 2006-12-03 00:08 | 日々雑感