La Lune Lunatique

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科学的根拠がなくても大切なこと

世の中には、科学的な根拠がなくても大切なことはいくらでもある。

以前、言葉について書いたときにちょっと書いたのだけれど、美しさ、なんてのは恐らくその最たるものかもしれない。
ある音素の一連のつながりであるところの一つの「ことば」が美しいかどうかは、ア・プリオリに決まっているのではなく、その言葉の発せられる局面や、発した人や、その声音や、受け取る側の心理状況や、その他、種々の要因に左右されるものだ。

何を見て美しい、と思うのかも人それぞれだし、同じ絵を見て、ある時と次回とで同じように感動するとは限らない。そうした心理は恐らく分析困難なものだし、そもそも、分析などする必要がない。


気をつけなければならないのは、「科学」のフリをした偽物だ。

なんだか分からないけど気持ちがいい、なら、それでいいじゃないか。何も「マイナスイオンが…」なんて理屈をつける必要はないわけだ。出鱈目で非科学的な説明なんぞつけるより、滝のそばは気持ちがいいよね、で十分なはずなんである。
わざわざ科学を装うことで、装った側は何を得しているんだ?もっともらしい理屈づけで人をひきつけようとするよりは、いっそ、「科学では全く証明できません」のオカルトの方がよほどマシというものだろう。

オカルト(って別に怖いもの、という意味じゃなくね)を否定する必要は、別にない気がする。信じる信じないは、個人の自由だ。笑いたければ笑えばいいし、きゃあきゃあ騒ぎたければそれでもいいし。

宗教も、他人に害なすものでもない限り、個人の自由だろう。私はそんなに信心深くはないが、それでも神仏にすがりたくなるときはあるし、初詣だって行くし、神様はいると思っているほうが、人間、少しは謙虚になれていいんじゃないかとも思っている。あ、初期の仏典(「ブッダのことば」と言われるようなもの)読むのも好きだし。まぁ、他人に信じることを強要したり、他の宗教を信じる者と争ったり、ということが起こりやすいのが、宗教の難点ではあるわけだが。


ただ、世の中が科学のおかげでどんどん進歩して便利になったというのに、やたらに非科学的なものを信じたくなる心理、というのは、判るような気もしないではない。それは、この世の中が、あまり幸せに感じられないせいではないか。
なんか地球環境もどんどん悪くなっていっているというし(環境問題は一歩間違うとそれこそオカルトとか疑似科学と簡単にリンクしちゃうと思われるので、実は取り扱いが非常に難しいのだが。)科学一辺倒だった20世紀が悪いのだ!みたいな。
水道水だって変な化学物質(化学物質ってもうそもそも悪の代名詞だもんね)いっぱいだし、自然は素晴らしいのに、みたいな。(「天然の化学物質」に関してはどう判断するんでしょうね、こういう主張をする人は。)

冗談じゃない。化学物質のおかげで数世代先にとんでもない影響が出るとか出ないとか論じるような余裕もない、生水飲んだら感染症で死にかねないという状況は、今だって世界のどこにだってある。そうでない生活をとりあえず我々が享受できているのは、間違いなくある種の技術のおかげなのである。こういうこと言ったら真面目にある種の運動している人には絶対反論されるんだろうけど、どう考えたって、贅沢だから、ゆとりがあるから言ってられることなんだと思うよ。
私だって中国産の野菜だの水産物だのはイヤ、とは思ってしまうけれど、少なくとも、それは、食べてすぐ死ぬようなものではない。おまけに、他のものを選ぶゆとりがある状況だから、怖いわ~、イヤだわ~と言えるのだ、ということも、心のどこかに常に突き刺さってはいるのだ。
危険なものを減らすための努力が必要なのはもちろんだが、経済的な苦しさゆえに、そういう「危ないかもしれないもの」しか食べられない人が、この日本にだって大勢いるのだ。

話がそれまくったけれど、ともあれ、わざわざ科学を装う科学でないもの、を見分けていく力を、もっともっと私たちはつけなければならないのだとつくづく思う。

「今の科学では解明できないだけ」という、これまたもっともらしい言葉もある。
実は、科学って、解明できていないことだらけなんだよね、ごくごく身近な世界でも。
ただ、それは厳密に言うと「何故そうなるか」が分からない、ということであって、「これをこうするとこうなる」という、何がどうなる部分は分かっている、ただ、なぜ、どうしてそうなるかが分からない、ということだ。
「今の科学では解明できない」と言われるモノの、「これをこうするとこうなる」部分は、では真実か。確実に再現性があるものなのか、そこを見極めなければどうしようもないわけで。

なんかそうやって考えてくると、やっぱり、科学というか、理科が苦手でも、ある程度はなんとかなりそうな気がしてきましたね。
要は、思考を投げないことです。権威ありげなことが書いてあると思考停止してころっと騙される、そんな人間にはならないこと。それと、最低限の常識か。例えば電気がどういう仕組みで電球を光らせているのか、実は恥ずかしながらうまく説明できないんですが(習ったはずなのに…)それでも電気に関することって、ある程度は経験で知っているものですからね。
「あるある大辞典」みたいな、これまた一見科学を装っていたようなものも、しかし、ただ納豆食べるだけで痩せるなんて、常識があれば疑うだろう?というような感じでしょうか。
考える子どもを育てる、かぁ…。それぐらい誰だって考える、というような「常識」が、どうも最近通じないことがあるようで、なんか、特殊な?子育てでもしないと駄目なのか、と、変な焦り(は大げさだが)を感じたりすることもあるのです。別に私はことさらに特殊な育てられ方をしたわけではないはずなのですけれどね。

もっとも、SF小説なんかで、実は嘘なんだけどもっともらしい説明とか物理法則?とかを小説のためにでっち上げる、というのは極めてよくあることで、読者も作者も「虚構」と分かっててそれを楽しむんでしょうが、実は私はそれが「虚構」だと想像はできても、実感は出来ないことがしばしばあるのです。だから、フィクションじゃない世界でそういうことされると私も弱いんで、偉そうなこと言えないんですけどね…。
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by mmemiya | 2007-07-01 00:33 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(3)
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Commented by みけ at 2007-07-05 14:00 x
ちょっとテーマとはズレますが、科学教育の方法論のひとつに『仮説実験授業』というのがあります。ある事象についてクラスの中で仮説を立て、それぞれの論拠を討論します(他人の意見を聞き、自説を主張し、他人を説得することも学ぶ)。そして、実験を行って確認する。というと小難しそうですが、例えば小学生の磁石の授業で、磁石に付く物・付かない物を討論する。例えば「紙は磁石につくか?」等など。
私は高校生の頃から「学校教育」というヤツに不満タラタラで、自分の学びたいことを好きなようにやりたくて、あちこちから情報を集めていました。そのひとつがこの『仮説実験授業』で、大学生のとき、主催者の板倉聖宜さんを招いた勉強会でこのテーマをやりました。常識的に考えれば、お札は×のはずですが、なんと聖徳太子の一万円札は磁石に吸い寄せられました!
Commented by みけ at 2007-07-05 14:01 x
(続きです)この授業の醍醐味は、一つの答えに全員を導くことではなく、互いの違いを認め合うことです。間違った仮説でも説得力があるとみんなが納得してしまうこともあり、意見は割れ、思考は動き、ダイナミックな授業展開となります。理系とか文系とか関係なしに、誰もが楽しめるものだと思います。※ただ一つの難点は、この授業をやれる力量の教師が少ないことです。
(ちなみになぜ一万円札が吸い寄せられるかというと、当時のものはインクの一部に鉄分が含まれていたそうです)。授業を受けていた大学生たち、目の前で起こったことに大興奮でした(笑)。
環境問題をリスクで考えるには、中西準子「環境リスク学―不安の海の羅針盤」がお奨めです。
“1”か“0”かで騒ぐ世の中に疲れたとき、頭をすっきり整理させてくれます。
Commented by mmemiya at 2007-07-06 21:22
みけさま、いつも興味深いご教示をありがとうございます。とても為になります。
仮説実験授業、面白そうですね。ちょっと検索してみましたが、いわゆる自然科学だけじゃなく、社会科学なんかも対象できるんですね。
私、いわゆる「ディベート」と呼ばれるものがあまり好きになれないのですが、それは、内心では自分が是としないことであっても、場合によっては「是とする」立場でしゃべらなきゃいけない、というのがどうにもおっくうだからです。それとちがって、自分で立てた仮説を主張するというのはいいですね。そんな授業を受けるチャンスがあるといいのですが。
環境問題の本もご紹介ありがとうございます。ぜひ読んでみたいと思います。