La Lune Lunatique

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このブログのトラックバックに関するポリシー

最近まで知りませんでしたが、ブログ特有の機能である「トラックバック」については、そのとらえ方が非常に人それぞれ、なのだそうです。
その理由については、様々な考察がなされているようです。「トラックバック 文化圏」なんてキーワードで検索すると、多分、色々、見ることができます。

で、それらの分析を読むと、人様のところにトラックバックするのが、ちょっと怖くなるなぁ、なんて思ったりもするのですが、余計な摩擦を減らす手段として、「自分のブログのトラックバックに関する考え方を明示しておく」というのが推奨されてまして、確かにその通りだわ、と思うので、私も書いておくことにしました。(うちへトラックバックくださる方なんて、滅多にないですけど・・。)

なお、この記事作成に当たっては、「絵文録ことのは」様を参考にさせていただきました。

・このサイトへのトラックバックは、現在のところ、承認制をとっております。
・トラックバックは関連記事からであればうれしいです。
・内容に関係があってリンクもしている記事からは、トラックバックを遠慮せずできるだけしてほしいです。
・ここで挙げたポリシーは自分自身にも当てはめます。自分が消すようなトラックバックは他人に送信しません。
・トラックバックする前に事前連絡は必要ありません。
・知らない人にいきなりトラックバックを送るのは問題ありません。
・トラックバックをしましたとコメント欄にできたら書いてください(理由:たまにトラックバックを見落とすので。)
・トラックバックをいただいた場合、相手記事にコメントをすることもあります。
・トラックバックへのトラックバック返しは必要ありません。
・トラックバックを受けたとき、トラックバック返しはしません。
・こちらからのトラックバックに対する挨拶やお礼は必要ありません。
・多重トラックバックの削除依頼は必要ありません。
・当方が受けたトラックバックは削除することがあります。
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by mmemiya | 2006-06-29 20:59 | トラックバック・ポリシー | Trackback | Comments(0)

ケトン体が日常用語になる日

職場で、たまたま、「尿検査したらね、ケトン体が+++だったのよ、信じられないでしょう」「そりゃあ、しんどかったはずだ」などという会話を小耳に挟んだ。
ケトン体ってなんですか、と聞くのも憚られる雰囲気で、とりあえずGoogleを立ち上げて検索してみる。

…医療ソーシャルワーカーになりたい、と思う私が、社会福祉士の勉強をとりあえずしていて、多分、これじゃ足りないんだろうな、と、一番思っているのが、医学分野の知識だ。
もちろん、社会福祉士試験にも「医学一般」というのがあり、全く勉強しないわけではないのだけれど、医学一般の中には医療に関連する法律の知識やらなにやらまでが含まれており、このテキストをちょっとさらったぐらいで、医療現場でのやりとりについていけるかは大いに疑問だ。

別に私は医師になりたいわけでも、看護師になりたいわけでもないので、深い医学知識を身につけたいわけではない。けれども、医療現場でソーシャルワークの対象になる人は、当然、何らかの治療を受けていたり、治療を終えたばかりの人達であって、今後の生活にも、様々に医療面の介入が必要だったりする。そんな場で、ある程度の知識すら持っていなければ、状況の理解すら覚束ないことになるだろう、というのは容易に想像ができる。
…といって、じゃあ、どこまでの知識をどう得ていればいいのか、が分からないので現在模索中なのだけれど、ちょうどそんなことを考えているときにこの会話だ。この会話をしていた人たちは看護師さんと栄養士さんで、この人達にはこれが、日常会話で用いられる共通の知識になっているわけだ。ううーむ。管理栄養士養成課程のテキストでも探せばいいのか??

…多分、必要に迫られれば覚えられる類のことなのだろうとは思う。実は、私は第一子を妊娠中に妊娠糖尿病というものになった。
最初のうちは、尿検査で糖が出ることが何回か続き、血糖値とHbA1cを調べたがどちらも正常、しかし尿糖はまだ続き、とうとう75gOGTTをやって、しっかり糖尿病型と判明。
…という経過の中で、母子手帳に書かれた「HbA1c」の文字すらどういう意味か分からず調べ、糖負荷検査も、1時間値と2時間値は教えられたが、それがどの程度のレベルのものなのかすら分からず調べ、としていた結果、5年たった今でも、HbA1cやら空腹時血糖値、随時血糖値がどの程度なら正常の範囲で、どの程度だと要注意で、ぐらいのことは大体覚えている。
(祖母が糖尿病なので、私も将来には大いに危険を抱えているわけで、そうそう忘れるわけにもいかない。)こんなのは、糖尿病と診断された人なら皆そうだろう。
その他の病気だって、自分がかかったり、身内がかかったりすれば、否応なしにある程度の知識は得て、これからどうなるか、どうすればいいのかを知ろうとしたり、検査結果の意味を知ろうとするはずだ。
その程度のレベルのことを、比較的よくある病気について知っていれば(正確な数字なんて記憶している必要はない、おおよそのイメージとして)いいのかな、などと漠然と思ってはいるが道のりは遠い。
ひとまず、アマゾンで「人体の構造と機能」という本と「カルテ用語集」を購入。
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by mmemiya | 2006-06-28 01:31 | 医療ソーシャルワーク | Trackback | Comments(0)

落書きする本

友人から、子どもたちに誕生日祝いを頂戴した。

そもそも、私は交際事全般に不精な方で、人様の誕生日も、何月、までは覚えていても日にちを忘れていたりするし、よそ様のお子様にも、出産祝いぐらいは贈るものの、誕生日祝いまで贈ったりしたことはないので、こんな私がこんなものいただいて、と、恐縮してしまうのだが。

で、いただいたものが、五味太郎氏の「らくがき絵本」。五味太郎が50%著とのこと。なるほど、例えば、大きな口をあけた顔が書いてあって、そこに「歯を書くように」とあったり、四角が書いてあるなーと思うと「ハンカチに模様をつけて」だったり。

…実はなんかこう、うちの子は芸術方面に弱いのかなんなのか、まだ、お絵かきを見ても何を書いたのやら訳の分からないレベルで、今日も、さっそく喜んで落書きをしていたけれど、見ているほうは???だったりもしたけれど、ま、本人が楽しそうなのでよいとしよう。

娘のほうは、ページに穴が開いていて、そこを塗りつぶし、そのページをめくると、塗った部分がちょうちょになっている、とか、そんな本を頂いたのだけれど、ちょっとまだ、塗りつぶす、というのは無理なよう。でも、「おめめー」「おくちー」とか言いながら、色鉛筆でぐるぐるぐる。あるいは、とん、とん、とん、と点を描いていったりして、「できたよー!」と得意になって見せにくる。

ものすごく分厚いのでびっくりしたけれど、長い間、楽しめそうで、いいものをいただきました。

普通に読む絵本も、親が買うよりいただきものの方が多いような我が家。絵本も、どんどん増えて収拾がつかなくなるので、どちらかというと図書館で借りるようにしているのだが、いつのまにやら増えてくる。おまけに、今年から、保育所で毎月絵本を買わされる。買わされる、と言うと語弊があるかもしれないが、なにしろ入園して初めての月末に、なんの説明も断りもなしに集金袋がやってきた。説明がない、という部分にかちんときて、「これはどうしても買わなければいけないものなのか」と、個人懇談の時に聞いてみたのだけれど、まぁ、子どもは喜んでいるので、一応継続している。しかし、薄い本とはいえ、年に24冊のペースで増えるなんて、ちょっと勘弁してほしい部分もあるのだが…息子用はまだしも、娘の方の本なぞ、そう再読に耐える感じの内容でもない。

一方で、私が昔読んでいた絵本に、図書館で再び出会ったり、実家から発掘されて出てきたりして、時代を超える絵本にもたくさん出会う。絵本とのつきあいは、大変でもあり、楽しくもあり。
図書館で、表紙だけで子どもが選んでくる本にも、けっこう、「おお?」と目を開かされるものもある。
4歳と2歳、絵本とのお付き合いはまだまだ続く。さて、これから、子どもたちと私は、どんな本に出会うのだろうか。
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by mmemiya | 2006-06-27 23:24 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(0)

現金の要らない社会

ふと気がつくと、財布の中身が心もとない。
日頃、保育所送迎時間に拘束されているので(そして子ども二人を連れていると、小回りがききにくいので)生活に必要なお金を下ろすのは、もっぱら週末。銀行のポイントを貯めて、いつも、「時間外手数料1年間無料」に引き換えているので、手数料は気に病まなくてもいいのだけれど、病児保育に行ったり、自分が医者にかかったりすると、思わぬスピードで現金が消えていて、ありゃ、なんてことがたびたびある。

フランスに行って、「日本と違うものが定着してるなぁ」と感じたことが2点ある。一つは、今はインターネットに取って代わられたかもしれないが、<ミニテル>と呼ばれるキャプテンシステムの普及。日本では、所謂「ニューメディア」時代に鳴り物入りで喧伝され、そして消え去ったシステムだが、フランスは、確か世界で唯一、このシステムが普及した国だった。

そしてもう一つが<デビットカード>。これに関しては個人小切手の存在も忘れてはならないのだろうが、ともかく、フランスは現金をあまり使わない社会だった。それは恐らく今も変わっていないだろう。
当時、もっとも高額な紙幣は500フラン札だったが、私はこの500フラン札を拝んだ記憶がほとんどない。当時の為替レートで言えば1万円程度なのだが、こんな高額紙幣、偽造の心配もあり、普通の店では受け取りを拒否されていたのではないか。どうかすると、その次の200フラン札でさえ、「おつりがない」などと嫌がられる存在だった。
スーパーでの買い物は、デビットカードか小切手で払う。スーパーの場合、小切手の金額欄も印字してくれるのだが、どうも私は小切手は苦手で、大家への家賃支払いとか、限られた場面でしか使ったことがない。デビットカードは、カードを渡して4桁の暗証番号(銀行が指定してくるので自分では決められない)を入力するだけ。即日では決済されないものの、これは「クレジット」ではない。だから、自分の口座残高を超えて使いすぎると、銀行口座が凍結されてしまうこともありえる。

その頃のフランスでは、どこの銀行(+郵便局)も、発行するカードを共通のICカードにしており、その名は「カルト・ブルー」つまり、「青いカード」という、文字通り青色のカードだった。真ん中の金融機関名の部分だけが銀行ごとに違うだけで、あとは統一のデザイン。これに、VISAとかをつけて、国内外でクレジットカードとして使うことも可能。口座残高にさえ気をつけていれば(あと、銀行が間違った金額を引き落としていないか、もだが)小銭を探したり、大金を持ち歩く必要もない。(なお、銀行が引き落とし金額を間違えるという事態はしばしば発生する。)

デビットなので、当然、銀行のキャッシュカードも兼ねていて、街角の現金自動引き出し機(日本と違って「預ける」方は不可)でお金も引き出せるわけだが、自分の口座にいくら残高があっても、1週間の間に機械から引き出せるお金の額は、日本と比べれば非常に低く設定されていた。(正確には分からないが、1日あたり数万円の世界だったような。)
高額の現金が、もしどうしても必要になった場合は(闇で部屋を貸している大家に家賃を払うとか??)自分で自分宛の小切手を切って銀行窓口に持って行って現金化するのである。

ICカードなんてものが普及する前は、小切手で決済、が普通だったので、特に年配の人は、スーパーなどでも小切手を使う人が多かったように思う。当時、大体、小切手は50フラン(1,000円)、カードは100フラン(2,000円)ぐらいから使えた。だから、現金を使うケースと言うのは、それ以下の金額の買い物だけ、という人が多かっただろう。

更に、勤め人の場合、多くの人が、昼食代として会社から「チケ・レストラン」という食券を支給されている。レストラン(高級店を除く)やカフェの入り口で気をつけて見てみると、大抵、複数の「チケ・レストラン」会社のマークが貼ってあるはずだ。自分の持っているチケレストランを使える店に行けば、限度額以内の食事なら、もちろん現金なしで食べられるし、ちょっと高いものは、差額分だけ小銭を出せばいい。

スリが観光客を狙う、という。あれは、物慣れない人間を狙う、という側面も確かにあるだろうが、「まとまった現金を持ち歩いているのなぞ、観光客だけ」という事実があるからなのだ。

私はチケ・レストランを持っていなかったので、毎日、昼食代に現金を必要としたが、それでも、日頃、財布の中には大して現金は入っていなかった。
現金輸送業者の2週間に渡るストライキで、街中から現金が消え、非常に苦労させられたが、大手商店などはこの期間だけ5フラン(100円)からデビットカードを受け付けたりして急場をしのいだ。

ちょうどその頃、まさに日本では、デビットカードが導入されようとしていた。うまくすれば、私が帰る頃には、ちょっと現金依存度が低い社会になっているかしら?と期待していたのだが、結果的に、デビットカードはほとんど日本に根づかなかったようだ。まぁ、確かに、これを使うメリットは、そんなに感じられないわけだし…。
技術立国?携帯大国?日本では、携帯電話等を使った電子マネーの普及の方が、ありうる道なのかもしれない。そんなわけで、私にとっては、当分、財布の中身に気を配る日々は続く…。
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by mmemiya | 2006-06-24 01:53 | フランス関連 | Trackback | Comments(0)

ムスメ2歳

今日、保育園で誕生日会があり、6月生まれの娘もお祝いしてもらってきました。
「おたんじょうびおめでとう」なんて本まで持って帰って来ましたよ。写真が貼ってあったり、先生からの言葉、親からの言葉が書いてあったり、身長体重が書いてあったり、好きな食べ物や遊びが書いてあったり、盛りだくさんです。なるほど、「親からの言葉を書く紙」って、ここに貼り付けるんだったのね、と、ようやく分かりました。

…我が家は本当に写真を撮らない家なので、子どもたちの写真ってのが、ほとんどないんですよねー。携帯を1年前にカメラ付きに替えてから、まだ少しは撮っている方だけれど、それにしても年にせいぜい10枚ぐらいかしら?
で、なんかこの本で、久々に子どもの写真を手にした格好です。やっぱ、たまには撮らないといけないかしら。

常日頃、保育所の送迎をしながら、我が娘はもう一歳上のクラスの子達と同じくらいの体格、と思っていましたが、改めて身長体重を母子手帳掲載の幼児成長曲線に当てはめると、たしかに3歳児でもまったくおかしくない。やっぱりかー!
この間など、近所の公園で、初対面の幼稚園児と思しき子(後で聞いたら年長さんでした)に「ごめんねー、この子、大きく見えるけど、まだ1歳なのよー」などと言い訳したワタシ。何を言っているやら。でも、聞き分けのない3歳児にしか見えないようで不安なのですよ…。

先月は姪っ子(うちの子たちには従姉妹)の誕生日があったりしたものだから、娘もここしばらくずっと、「Cちゃんたんぼうび」とか「にしゃい」とか言いまくっています。
そして、明日は(本当の誕生日にはちょっと早いけど、平日にケーキまで焼くゆとりはないので・・・)息子をアシスタントに、「キティちゃんのケーキ」を作る予定。いえね、普通の丸いケーキの上にチョコレートペンで絵を描くだけなんですけど。(ひげはポッキーでも買って来ようかしら…。)

キティちゃんを愛するムスメは、「キティちゃんのケーキを作る」と話したら、毎日、それを話題にします。今日も「キティちゃんのケーキ、おかあしゃん、くくる」と言いながら眠りに就きました。
いやー、ケーキはともかく、食事のメニューのほうがちっとも思い浮かばないんですが…。(結局、何を出してもよく食べる娘という、ありがたい話です。)あー、茶碗蒸しかなぁ…。って、メインディッシュはどうしよう。

このところ、「みえる」とか「とれる」という可能の表現をしたり、「ちなうー!××したいー!!」などと、かなり自分の意思の表現が上手になってきたせいか、ひところのような癇癪はちょっとおさまってきました。あと、得意の台詞は「ぶんで、ぶんでぇー!」(=「自分で」)。
「どこかなー」とか、「なにかなー?」なんて言葉も使っていますが、これは分かっているかは怪しい。私が「どこ?」とか「どれ?」「なに?」とか聞いても、大体は鸚鵡返ししかしません。

それと、「Cちゃんも!Cちゃんもちょーだい!」などと騒ぐと、横から<にぃに>(息子)が、「ほしい?」。娘が「うん」と応えると、今度は息子「いらない?」。またも娘の返事は「うん」。
つまり、「うん」と言いつつ、分かって返事しているかはかなり怪しい…が先日までの状態だったのですが、このところ、自分が欲しい物に関して「いらない?」と聞かれると「いや!」とか、<うん>以外の返事が出始めました。ちょっとずつ、物が分かってきているようです。

いよいよ赤ちゃんぽさも抜けてきて、一抹の淋しさも感じますが、2歳から3歳への大きな成長が、また、日々楽しみでもあります。
とりあえず、娘も息子も、毎日元気でありますように。
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by mmemiya | 2006-06-23 22:41 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(0)

「権力の日本人」橋本治、「インド日記」小熊英二

スクーリングに通う間、久しぶりに電車に乗ったので(普段は車通勤)本を読む時間がたっぷりあった。なにせ、片道1時間以上かけていたので。

でも、4日間の往復で読めたのは2冊だけ。

「権力の日本人」は、先だって、偶然本屋で見かけ、タイトルと著者名に惹かれて買ったのだけれど、もうとにかく人名が山のように出てきてついていけない。高校で日本史とってなかったし、ってのは言い訳にはなりませんな。世界史で習った人名、覚えているかと言われたら絶句するしかないわけで。
で、この本、平清盛はなぜ悪人か、という話から始まり、鎌倉時代は勿論のこと、平安、果ては奈良時代までさかのぼり、歴代天皇の周辺その他の人物名、家系図、年表が、次から次へと出てくるのです。
確かに、奈良時代ってそんなに現代なのか!とか、続日本紀が読みたくなったりとか、刺激の多い本ではあったのですが、いかんせん、頭に入ってこないし残らない…。
多少なりとも人物名についていけるところが、全部、漫画がらみ(途中で挫折した「天上の虹」里中満智子と、「古代幻想ロマンシリーズ」長岡良子)ってあたりが情けないのですが、でも、どうしても、文字で見るだけの人名って、無機質なのですよね。
そこへいくと漫画は、絵で頭に残ってるので、藤原不比等も五百重も武智麻呂も宇合も房前も、橘美千代も、もはやあの絵でしか想像できないけれど、頭の中でちゃんと、キャラクターの識別が出来るのですよ、絵があると。

ううーん、続編の「院政の日本人」も買わねばなりますまいて。「日本人」ってなんだ、と言いたくなるけど、いや、でも、しかし…。


で、もう一冊のインド日記。
小熊英二という人の本を、一度読みたい、と思いつつ、高いのと、難しい本かも、という躊躇いから、とりあえず、この本を買ってみた。
いやー、面白い。日記だからどこから読んでも、どこでやめてもいいし、そのくせ、どこを開いても刺激的。他の本も色々読みたくなってくる。インドに特段の興味がない人でも、日本に興味があるのなら、ぜひ。
そして、「日本人とは日本国籍を有する人。それ以外の意味はない」と言い切ろうとして自分の中に残るわずかな躊躇いが、私個人のものではなく、他人と共有されうるものだということも確認できた本だった。この本は、それだけを論じているわけではないので、そこが掘り下げられているわけではないが、「どうしたらヒンズー教徒になれるか」と「どうしたら日本人になれるか」のあたり、特に興味深かった。
…現実のインドへ行ってみたいとは、あまり思えない私ですが、この本を通して、インドを垣間見るのはとてもおもしろうございました。
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by mmemiya | 2006-06-20 23:46 | 読んだ本 | Trackback | Comments(0)

言葉について 断片的な、あまりに断片的な

この間、ある親子に出会った。お母さんは日系ブラジル人で、かなり上手に日本語をしゃべっていた。一緒にいたお子さんは、日本の小学校に通っていると言う。で、ちょっとお子さんにも話しかけてみたのだけれど、お子さんには私の言葉は通じなかった。(横からお母さんがポルトガル語で通訳)。そばにいた私は、なんとも複雑な気分になった。
この子は学校で、どんな時間を過ごしているだろう?それは楽しい時間だろうか?

…繰り返すが、私は、多言語環境におかれていない乳幼児に、わざわざ人工的に多言語環境を与えることに否定的である。けれど、実際に、多言語環境にいる子どもたちが大勢いるのもまた事実で、「多言語環境を与えるのに否定的」な自分は、その子どもたちそのものを否定しているのではないか、という自問が、ぐるぐると自分の中をまわり続けている。「そうじゃない」と、言いたい。でも本当にそう言えるのか、という自問。

セミリンガル、などという言葉がよく聞かれるようになった。言語とは本当に複雑なものだ、と、ため息をつきたくなる。けれど、言語活動なんて、上を目指せばキリがない一方で、例えば(もはや古いかもしれないが)なんでも「うざい」とか言ってるだけで、生きていくことができるのも事実。<完璧な>言語運用能力というもの自体が、そもそもフィクションでしかない以上、その到達度を云々したって仕方ないようにも思う。言葉とは最終的には道具であって、しかも、それを豊かにしていく術は、後からいくらでも見出せるのだから。

そもそも「正しい」日本語とは、あるいは「美しい」日本語とは、という問いに、唯一無二の正解などないだろう。「美しい」と言うとき、それは「物語内容」(語られた内容)なのか?それとも「物語言説」(語りに使用された言葉)なのか?
どんなに「正しい」敬語を使った語りであっても、それが、マニュアルにのっとり機械的に繰り返される言葉ならば「美しい」と感じない人もいるだろう。他方、例えば私が子どものころ、小学校に飾られていた野口シカの手紙を、あなたは「美しい日本語」だと感じなかっただろうか?その美しさが文法上の正確さから来るものではないとしたら、美しさとはどこから来るのだろう?
例え、語彙が限られ、なんでもかんでも「うざい」で過ごしていた子が、何かどうしても表現したいという衝動に駆られたとき、自分の持つ限られた語彙の中から、懸命に相手に伝わることばを探し出そうと格闘する瞬間が来るならば、そこに「美しさ」が宿らないという保障がどこにあろう?

今まさに、自分の「ことば」を獲得しようともがいている子どもたちに、いたずらに混乱を与えるのはやめたい。けれど、日本語とそれ以外の言葉の2つ(あるいはそれ以上)が、その子どもがこれから生きていく中で不可欠のものであるのだとしたら、あとはただ、どうにかそれらの言葉が、子どもたちの中で確固たる道具として根づくよう、最大限の努力を払うしかないだろう。
私は幸いにして、そうしたことに思い煩う環境に置かれてはいないが、この世の中の、全ての「ことば」に向き合う子どもたちに、心から、幸あれと祈る。

・・・と、またまたどんどん硬くなってしまいましたが。


私は恐らく、<ことば>に対するこだわりが強い方なのでしょう。それは、いいとか悪いとかの問題ではなく。
学生時代を過ごした大阪から地元に戻るとき、私の親は「え?帰ってくるの?」と非常に驚きました。
そのまま地元には戻ってこないものと勝手に思っていたらしい。(「戻って来い」とか「女の子は家から通える学校に行けばいい」とか言われなかったことに感謝すべきなんでしょうが。)
で、私がなぜ地元に戻ったか…。私、将来、自分の夫なり子どもなりが、自分と違う言葉(ここでは大阪弁)のネイティブになる、という状況が、どうにも受け入れがたかったんですね。特に、家族全員の中で、自分ひとりがその言葉のネイティブじゃない、というような状況が。
(大阪弁が嫌いと言うことではなく、私は大阪弁のネイティブにはなれないから、疎外感を感じるだろうな、ということであって、大阪じゃなかろうとどこの言葉だろうと同じです。)
同じ理由で、国際結婚も私は出来ない、きっと出来ない。

…でもねぇ。同じ言葉(厳密に「同じ言葉」なんてのがそもそもありえないとかいう話も置いておいて)を話しているからといって、コミュニケーションがうまくいくとは限らないわけだし、そこまでかたくなにならなくても、とも思いはするんですけどね。そして繰り返しますが、これは自分のこだわりであって、そこに善悪の価値はないので、人様の行為をどうこう思うわけではありません、もちろん。
更に言えば、世の中には、ノンバーバルな形でのコミュニケーションをメインにする人もいるわけですし。

あと、大体、単純に「これからは国際化社会、英語を身につけなければ」とかいうのは馬鹿馬鹿しいですよね~。(いったい、こんなことが何十年言われているのやら。)
確かに、学問の世界とかいろいろなところで、世界共通語的に英語は使われているでしょう。
かといって、英語さえ身につければ世界のどこへ言っても困らない!なーんてことは絶対無いし、「で、その国際化社会とやらで、自分は何をしたいのか?」ということから始めないと、どーしようもないですよね。

多分、母語の体系にない音韻は、一定以上の年齢になれば発音できなくなるでしょう。
それでも、発音は大事だけど、ことばの全てじゃないし。(そんなこと言ったら、構音障害の人はどうしたらいいんですか。)
小学校高学年から英語教育を導入して、それで「バイリンガル」とやらが出来上がると、まさか文部科学省のお偉いさんが思っているとは思えないけれど、なんなんでしょうねぇ…。
ま、「バイリンガル」ってじゃあどの程度のレベルまでしゃべれたらそう名乗れるの、という話もあって、私、フランスのとある店で、同行した友人が欲しがっている物を、彼女に代わってフランス語で説明していたら「ビラング(=バイリンガル)っていいわねえ」と言われて仰天したことがあります。
え?この私のつたないフランス語で「ビラング」名乗っていいなら、私なんか「トリラング」ですがな。(仏語より英語のほうが、多分、もう少しまともに使えるはず。)

まぁ、これからも、乳幼児英語教材の勧誘は「あらー、私、英語もフランス語も出来ますから、自分で教えるから大丈夫ですわー」で受け流します、が結論ですかね。
それで正確な英語の発音を身につける機会を失った、と、将来子どもに苦情を言われるとしたら、それは甘受いたします、ええ。
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by mmemiya | 2006-06-18 07:15 | 日々雑感 | Trackback | Comments(5)

働きながら学ぶ&資格の意義

スクーリングは、200人近くの人が集まっています。<夏に一週間まとめてのスクーリング>と、<金曜から月曜、金曜から日曜の2回のスクーリング>のどちらかが選べるんですが、後者は今年からの制度。で、事務局も予想外だったが、蓋を開けてみたら後者にものすごく集中したそうです。

まぁ、通信教育を選んでいる、ってことは、大抵、昼間は働いてる、ってことですからねぇ。まとめて休みを取るより、分散型の方がありがたいですよね。

ただ講義を聴くだけなら、他の人がどんな人か知る由もないのですが、4日間のうち1日は20数名ごとにクラス分けされて、グループワークがありました。そこで自己紹介(というか、二人一組で自己紹介をしあった後の他己紹介)があったので、参加者のごく一部とはいえ、どんな人がいるか分かったのですが、大体、2パターンに分かれると見ました。
一つは、もうけっこう福祉分野で長いこと(相談的な仕事も含め)働いているんだけれど、改めて基礎的なところから、きちんと理論を勉強したい、ということで入学した組。年齢層はかなり高め(50代ぐらいの方が中心かな?)。
もう一つは、同じく福祉関係で、主に介護職として働いていて、ステップアップを図りたい、という組。こちらは20代、30代もいますね。

自己紹介を聞いた限り、現在、福祉と全く関係ない仕事をしている人はほとんどいません。
どこの通信課程でもそうなのか、たまたまそういう人が多く集まっているのか分からないのですが、社会福祉士の国家試験の合格率は30%以下なんだけれど、ここの通信教育の卒業生の合格率は50%を超えてます。通信を続けるのって、やっぱり意志も強くないとダメだし、通信教育だけでのこの数字はけっこうすごいかも。それだけ、やる気のある人が集まっているんだなぁ、と、自己紹介でも改めて実感。
1年以上の実務経験(福祉関係の実務なら何でも、ではなく、指定された種類の施設での相談関係業務の実務だけです)があると、実習が免除になるんですが、ちらっと見たところ、実習する人の数は10分の1ぐらい?って感じだったし。(私も実習免除組なんで、正確なところは不明。)

実際のところ、社会福祉士という資格、取ったからすぐに職が見つかるというものでもなく、微妙な資格ではあるのですが(資格があると有利だから、とかいって取っても、多分期待はずれに終わりそうな資格の一つです)まぁ、資格なんて、多くがそんなものかもしれません。
多分、みんな、この資格を自分の中でどう位置づけるのか、あるいは今後の自分の職業生活に、どのようにこの資格を生かしていけるのか、を模索しつつ来ているのでしょうし、仮に国家試験に受かっても、それがゴールじゃないわけで。

…いや、もちろん、合格しないとスタートしないものもあるわけですが、未だ過去問の一つも見ていない私…。(でも、自分で言うのもなんだけど、けっこう、「お勉強」は得意な方なのです。大学受験とかの頃から、どの程度記憶力が落ちているか、という問題はありますが…割と楽観的な私は楽観的過ぎるかも。)

参加されている方の中に、「子どもも手を離れたので改めて勉強しようと思った」という方がいらっしゃいましたが、私は子どものことやらなにやら、色々夫のサポートがあって、初めて勉強できています。でも、いつか勉強したいな、ではなく「今、やりたい!」という必然が(少なくとも始める時はね)自分の中にあった、ということなんで、それを忘れずにやっていかないといけないですね。夫に感謝しつつ。

200人集まるとけっこう圧倒される感がありますが、月並みだけれど、みんな頑張ってるんだから、自分も頑張らないと、って感じですね。
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by mmemiya | 2006-06-18 06:13 | 日々雑感 | Trackback(1) | Comments(0)

スクーリングが始まります

先日、第一回のレポートを終え、今日から、4日間の1年生前期スクーリング。
ううーむ。丸一日、午前も午後も「医学一般」とか、正直なところ、舟をこいでしまわないかが一番心配だったりするのですが…。今日は20人程度のグループで、グループ討議中心らしいので、大丈夫だと思うけれど。

土日の子守や金・月の保育園送迎を夫に任せ(多分、家に帰りつく時間はそう大きく変わらないはずなのですが。)家族の多大な協力を得てのお勉強なので、寝てちゃいけないのは当然、ではあるのですが・・・。

ああ、気づけば第二回のレポートも、あと2週間後に締め切りが迫っているではありませんか。
そっちも取り掛からなきゃいかんなぁ・・・。

ま、レポート自体は、割と基礎的な感じではあるんですが、国家試験対策ってのはレポート提出とはまた別ですし、社会福祉士試験って、けっこう合格率低いので、うーん、試験もどうなるか・・・。

いやいや。とりあえず、目の前のことを一つ一つ片付けていかなきゃ、ですね、はい。
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by mmemiya | 2006-06-16 06:50 | 医療ソーシャルワーク | Trackback | Comments(0)

言葉についてあれこれ 脱線 (国語って?)

 ちょっとばかり方向が変わるようだけれど、言葉についてあれこれ書きながら、私は、「両親の一方が日本語話者ではない日本国籍の子ども」や、「日本語環境以外のところで育っている日本国籍の子ども」のことを考えている。
 自分の子どもに、あえて英語を(今の時点で)覚えて欲しいと思わないのは、繰り返すが、日本国籍を持つうちの子ども達が日本語話者を両親に持ち、日本語環境で生まれ育っているからだ。けれども、日本語とゆかりがありつつも、そうした条件が揃わない子ども達は過去にも多数いたし、これからも生まれ続ける。私自身、身の回りの知人や、わずかなフランス滞在を通して、そうした子ども達に出会ってきた。それらのことについては、また別の項で考えをまとめていきたい。

 で、このエントリーはちょっとした脱線。

 先日、ぶらっと入った書店で「祖国とは国語」(藤原正彦)というタイトルの本を見て、非常に落ち着かない気分になった。無邪気に「国語」という言葉を使うこと(慣習としての教科名を除く)に、私の中にはかすかな抵抗がある。
 で、ぱらぱらっと見て、ドーデの「最後の授業」についての記述で、なんじゃこりゃ、と思った。アルザスはあの時点で十分フランス化されていた、って…。じゃあ、今でもアルザスに行けばアルザス語(言語学的に言えばドイツ語の一方言でしょう)をしゃべる人に出会えるという事実は、どう解釈すれば良いのでしょう。(アルザスはアルザスであって、もちろんドイツではないと思いますけどね。)

 自分では、とても買って読む気になれなかったので(ちなみに、言語能力が各種能力の基礎としてとっても大事という考え方自体には賛成します)ネットでちょっと検索すると、そもそも、この「祖国とは国語」というのは、シオランという人の言葉の孫引きらしい。で、シオランという人は…トランシルヴァニア出身で、半生をフランスで過ごした人。トランシルヴァニア!そう聞いただけで、そんな所の出身の人が「国語」なんて言葉を安易に使うはずもないであろうことが想像できそうなもんだ。(シオラン自身はルーマニア語話者だったらしい。今はルーマニアとなったトランシルヴァニアはシオランの生まれた当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部。で、今もトランシルヴァニアには、ハンガリー語話者も住んでいる。私は以前、トランシルヴァニアのハンガリー語話者にハンガリーで出会い、てっきりあそこはハンガリー語話者だけの地域かと思っていたんですが、全然違うんですね。)

そもそも、「国語」って、フランス語でなんて言うのよ、と疑問に思い、「祖国」「シオラン」「言葉」をキーワードにフランス語でネット検索したら、あっさり原文が見つかりました。以下、私のつたない訳ですが。
On n'habite pas un pays, on habite une langue. Une patrie, c'est cela et rien d'autre.
人はある国に住むのではなく、ある言語に住む。祖国とは、まさにそれ(=ある言語、あるいはひとつの言語)であって、それ以外の何者でもない。

…どこにも「国語」なんて書いてないじゃん。(まぁ、この言葉を日本語で紹介したのは故・山本夏彦らしいんで、ここで藤原氏を責めるにはあたらないのでしょうが。)

で、この著者、新田次郎と藤原ていの息子なんですって!?「流れる星は生きている」かよ!(と、えらそうに言うけど中学生の時読んだきりなんで、実はあんまり覚えていません。)
 自分がずーっと満州に居続けたら、無邪気に「国語」なんて言葉を使えなかったかもしれない、という話はどっかに出てくるのでしょうか?この方の本を読了された方に、ぜひ伺ってみたいのはその点です。

私が「祖国とは国語」というタイトルを見てイヤな気分になるのは、「自分にとっての国語とは何語か」という問いに即答できない人が世界にはいくらでもいる(「国語」の数が一つではない国もいっぱいある)という点への配慮を欠いて、この時代に国家論だのを説いてもしょうがないじゃないか、という思いがあるからです。

更に言えば、「国語」とは、もともと多分にフィクショナルなものであり、あるいはイデオロギー的なものです。アイヌ語や琉球語を無視し、また各地の方言と切り離された存在として、<日本には「正しい日本語」が、ただ一つの「国語」として存在する>などという考え方が幻想でしかないように。
 「最後の授業」でアルフォンス・ドーデが描いた子どもたちは、読み書きはおろか、満足にしゃべれもしない(彼らの母語ではない)フランス語を「国語」として押し付けられ、また翌日からは「ドイツ語」(標準ドイツ語とアルザス語は別個のものでしょう)を同じように押し付けられます。
(で、これを書いたドーデ自身はプロヴァンス語圏の出身なんですよね。)
 ブルトン語やプロヴァンス語、バスク語やコルシカ語をなきものとするべく、フランス語が「国語」としてフランス各地に広められたように、英語もイギリスにおいてスコットランド語やウェールズ語、マン語を抑圧・排斥し、アイルランドではゲール語を排斥してきました。
 それらの「国語」の押しつけを超えて、自分たちの言葉を自分たちで取り戻そう、という動きが20世紀後半から各地で出てきているというのに、21世紀にもなって、無邪気に「国語」なんて言葉を振りまわしている本…多分、図書館なんかで借りたとしても、とても私には最後まで読めそうにありません。

 藤原氏には、ぜひ、シオランの別の言葉を捧げたいものです。
Un homme qui se respecte n'a pas de patrie. Une patrie, c'est de la glu.
(自分自身を尊重する人間は、祖国というものを持たない。祖国、それはとりもちだ。)

※日本語で検索すると、たくさん「祖国は監獄」と出てくるのですが、原文のgluは「とりもち」とか「にかわ」とか、なんかねばねばしてまとわりついてくるもの、という単語だと思います。
部分冠詞(一個、二個とは数えられない名詞につく)がついていることからも分かるように、これはある種の物質名で、「監獄」は意訳でしょう。

 このエントリーに当たっては、下記のブログを参考にさせていただきました。
〒カワチ日手紙〒
カメハメハ日記
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by mmemiya | 2006-06-14 21:44 | Trackback | Comments(9)