La Lune Lunatique

mmemiya.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 02月 ( 27 )   > この月の画像一覧

ああ、うちの子も納豆好きですね~

現代版・「子どものホントの好物」に迫る | Excite エキサイト

これを見て、けっこう、「そうそう!」と思うところがあった。

そうなのよ~、納豆好きだし、スルメイカ好き。海苔は韓国海苔に限らず好き。こんにゃくも好きだなぁ。塩辛だのキムチだのは食べさせたことないので分かりませんが。

息子は、おでんにこんにゃくが入っていないのは許せないし、ひじきと大豆なんかを煮ても、こんにゃくが入っていないと文句を言う。
娘も、まぜごはんを食べながら「しいたけは嫌い~、もっとこんにゃく入れて~」だし。

豆の類は、インゲンからスナップエンドウから、無論枝豆、そして大豆の煮た物から黒豆から、みんな好き。

まぁ、ハンバーグなんかも、やっぱりやわらかくて食べやすいからか、それはそれで好きなようですけど。(逆に嫌いなものは二人ともイワシとかサバとか。青背の魚でなくても、小骨があると嫌う。食べさせますけどね。たちうおとかは、イワシとは、もう食べるスピードが違います。しかし魚より肉のほうが好きなのは間違いないところ。なるべく魚を多くしたいんですが、週末しか買い出しに行かない生活だとその辺が難しい…。結局魚は週3回かな。)

あと、漬物も、二人そろって好きですなぁ。塩分気になるから、あまり多く食べさせないよう気を使いますが。ただ、小梅のカリカリ漬けだけは、息子は大好き、娘は駄目。

結局、塩辛いとか、味がはっきりしてるものが分かりやすくて好きってことか?とも思ったけど、それではなぜこんにゃくや白滝が好きかは説明できないもんなぁ。

なかなか「白いだけのご飯」を食べたがらないのが、一番の困りものなんですが、小さい子どもは割とみんなそうみたいですね。じゃこかけると喜んで食べるんだけど、いつもそればっかりも、これまた塩分も気になるし。
けーっきょく、あんまり言いたくないはずの「食べなさ~い」を、毎食、言ってるような気がする…。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-28 22:40 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

「若者殺しの時代」 堀井憲一郎

せんだって亡くなった祖母は、多分20年以上、亡くなる直前まで、毎週、週刊新潮と週刊文春を買い続けていた。他にも、婦人公論とか、最近は買わなくなっていたけどクロワッサンとか、あの年になってよくもあれだけ何かを読もうという気力があるものだ、と、感心するほどだった。

で、読み終わったそれらの雑誌が、我が実家にまわってきていたので、私も割とそれらをパラパラ眺める年数が長かった。中学生の頃は、文春の「淑女の雑誌から」やら、新潮の「黒い事件簿(だっけ?)」なんかを盗み読んでもいたし(笑 でも婦人公論の読者投稿手記の方がもっとえげつなかったよなぁ…)。
で、もちろん、「ホリイのずんずん調査」も読んでいた。その堀井氏が出した本が、なにやらどうも、ネットで見ると気になる本だったため、購入。

あ~、なんか、私がこの間からこのブログに書き散らしてるようなことと重なるな~、というのが感想。
まぁ、堀井氏は、日本の現状を「戦後処理が棚上げにされている」というよりは、「戦後、ひとつのシステムが動き出し、それがもう、制度疲労というか限界に達している。そろそろこのシステムは終わりだ」というように捉えているようだけれど、いずれにせよ、私の何の後付もない勝手な落書きよりは、あれこれと傍証を挙げてその「制度の変化と終わり」を検証している、って、当たり前か。
若者がただの大人一歩手前だった時代から、「若者」というカテゴリーになり、あれこれ消費に明け暮れた時代、そして今、若者であるということが損である時代、というような話だけれど、ひとつ、非常に共感したこと。
「もういい年なのに、いつまでも若者気取りの人間が多い」みたいなことが書いてあるんですよ。それは、その人たちは若者であることによっていい思いをしたからだ、とも。
そうね~、自分を振り返っても、客観的に言えばいい大人であるべきなのに、まだまだ大人になりきれていないよなぁ、と思ったりするわけですが、それって思いっきり無責任かも。
でも、これを読んで思いました。そうか、少子化も、ひとつはそれが原因かも、と。
子ども産むと、どうしても「若者気分」だけで行動してばかりはいられなくなりますからね。夫婦二人なら、いつまでも、カップル時代のようなライフスタイルを維持することも可能だけど。

大人になるって損ばかり、と思ってきた、ということなのかなぁ、逆に言うと。だとすると、「大人になるというのはいいことだ」と胸をはれる大人にならなきゃいかんのか。うーん、難しい。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-26 23:10 | 読んだ本 | Trackback | Comments(3)

幻の「ゆとりの時代」

ずいぶん前に、しきりと「これからはゆとりの時代」みたいなことが言われていたような気がする。(「ゆとり教育」じゃないですよ。)
意味するところは、これからは、物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさを追求しようよ、みたいなことだったように感じていたのだが、どうだったんだろう。

ゆとり教育で、子どもたちにゆとりが生まれたわけでは、どうもないらしい。そして、「ゆとりの時代」もまた、来なかった。

代わりに、旅行やら余暇の遊びやら趣味のスポーツやらなにやらが、どんどんパッケージ化された「情報」になって届けられ、私たちは、ひたすら、それを消費することに追われるようになった。
なんでもかんでも「消費」の対象に変えていってしまったこの国の経済システムには、ホント、恐れ入るしかない。

パリでもNYでもミラノでもそうだと思うけれど、「流行の店」やら「人気のスポット」やらを、住んでいる日本人はほとんど知らなくて、日本の女性雑誌の方が、更にはそれを読んだ日本在住者の方が、よほど詳しかったりする。街さえも、あっというまに消費の対象に変換され、そして消費されつくしていく。

このシステムの中から抜け出すことは、本当に、容易じゃない。でもなんというか、こう、あたり中の草を食べつくしていくイナゴの大群みたいだよね。次に飛んでいける草原があるうちはいいけれど、飛べる範囲の草を全て食べつくしてしまったら、あとはもう、みな、共倒れしかない、という。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-26 01:00 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

餃子の皮をつくってみた

最近、週末というと餃子、というのが続いていたのですが、この土曜、息子と夫が市民プールから帰ってきてから急いで髪を切りに行き、「餃子のつもりだけど生姜が切れてたわ!」と帰りに買い出しに寄って、家に戻る途中に気がついた。
「しまった、餃子の皮を買ってない!」

ということで、初めて、家で皮から作ってみました。そして初めて、マルチミックスのニーダーを使ってみました。(なんか、ニーダー使ったのは一瞬だけだったけど…)

自家製の皮はモチモチして美味しかったけど、まぁ確かに時間がかかるなぁ…。子どもも総動員して家族総出で作ると楽しいかもしれないけど。

日曜は、おにぎりをにぎって、梅見に出かけました。まだ6分咲きといった感じでしたが、きれいでした。ちょっと肌寒かったけれど。

週の初めにフードプロセッサーのワークボウルに何故かひびが入ってしまい、おおあわてで取り寄せました。つくねにしろ、餃子にしろ、ハンバーグにしろ、フープロなしでは我が家の料理はとてもまわっていかないので…。
しかし、実は前に、カッターを間違えて捨ててしまい、それも買い換えているフープロ。ずいぶん高いフープロになってしまった…。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-25 20:13 | 料理のこと | Trackback | Comments(2)

更に言葉を変えてみる

どうも、豊かになって何をしよう、となると、消費ばかりがクローズアップされてたんじゃないかなぁ、と思うのですよね。

「いつかはクラウン」しかり、「三種の神器」しかりですね。あるいは、いい学校に入っていい会社に入って、その先の目標は一軒家を持つことであったりとか。

「豊か」とは消費することであり、商品にはグレードがあって、カローラを買えば終わりではなく、更に豊かになってクラウンを、なんて目標が出てくるわけですよね。
しかも、消費者は神様扱いだし、この国では。

どうもね、医療崩壊ってのも、この辺も絡んでいるような気がしてきました。
患者のことを「患者様」って呼ぶようになったでしょ。まんま「お客様」ですわね。

お客様ですから、自分が医療において主体であるとは思わない。自分がやることは、どこの医者の腕がいいのか、という情報収集。出てきた商品が欠陥(=失敗)だと思ってしまえば訴える。買い物をするように、レストランで食事をするように。(レストランの食事がまずいといって裁判に訴えることはできませんけどね。)

外国へ行くと、神様扱いの接客をされないので腹が立った、なんて話もちょくちょくありますが、いつからこうも、神様扱いをされるようになったんでしょうね。

とりあえず、「豊か」イコール「消費」という思考から自由になりたいんですが、なにしろ、それはもう、この国を発展させてきた経済システムと不可分なわけで、一朝一夕にはできることではないなぁ…。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-25 20:05 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

もう少し言葉を変えて言うと

かつて、「勉強しなさい。そうすればいい学校に行けていい会社に入れるから。お前はとにかく勉強しなさい」と、親が子に語った時代があったといいます。

親から子へのメッセージが、そんなに単純なものであったのかどうか、私は実地に確かめたわけではないのですが、仮に本当に、社会がそんな物言いに包まれていたのだとしたら、やはり、それこそが(その物言いを正当であるかのごとく錯覚させた経済成長とやらが)問題だったのではないか、という気がします。

よしんば、貧しい時にはひとまずゆとりを持つことが目標だったとして、その先に、いったい人々は何を思い描いていたのでしょう。

「人一倍の金持ちにならなくても、ゆっくり本を読んだり庭仕事をしたりする時間がもてる身分になれればいい」とか、「ゆとりが出来たら、周りの困っている人に、今まで以上に手を差し伸べよう」とか、「自分にもっとお金があれば、世界の貧しい国を救うために、少しだけでも援助をしよう」とか、まぁ言葉にしてしまうと偽善的かもしれませんが、例えばそんな「ある程度豊かになった後の目標」までを指し示すことなく、ただ、物質的に豊かになることを目指して闇雲につっぱしってきたのだとしたら、今の惨状もむべなるかな。

はたまた、一体どんなレベルになれば、滑車をくるくる回し続けるネズミのようなこの足を止めるつもりでいたのか。「まだまだ、まだまだ。ゆとりのある生活は定年後にでも送ればいい」などと思ってカタカタカタカタ滑車を回し続けてきたのか。何回まわせば終わりにするのか、決めておけばよかったのに。隣の人が音を立て続けているからやめない、何がどうなれば豊かだと思うのかを決めるのは世間か他人、というのではなく。分を知るとは、そういうことだったはずなのに。

豊かになることは、とりあえずの目標、あるいは、何かをしていくための手段であったはずなのに、それが目標だと思い続け、そして、どこまでいっても、まだまだ、もっともっと、と走り続けて、走れなくなって、息切れして。
突然ばったりと倒れてしまうのではなく、ゆっくりとしたペースであっても、着実に歩み続ける方策を、今、私は探しているのかもしれません。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-24 21:55 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

みんな自分が貧乏くじを引いたと思っている

厚生労働省が出している広報誌で、その名もなんのひねりもない「厚生労働」という冊子がある。
その2月号に、夜回り先生こと水谷修さんのインタビューが載っていた。若者が仲間から悪いことを誘われた時にどういう手法で断ったらいいか、という話など、なかなか興味深いものばかりだったが、一箇所、え?と思った部分があった。
どうやったら非行や薬物といった問題が解決するか、という問いに対して、水谷氏は、もう一度、高度経済成長期みたいな時代になればいい、というようなことを言っているのである。

その意図は、努力すれば報われて豊かになっていくべき、ということらしいのだけれど、これを読んだ瞬間、その水谷氏の本来の意図とは無関係に、突然、それまで私の中でもやもやしていたものが、いきなり、実感として胸にすとんと落ちた。

どれだけ本を読んで分かったつもりになっても、心底から実感する、というのはまた別のものだ。そんな感覚が突然訪れたのだ。

私は社会問題を系統立ててきちんと勉強してきたわけでもなんでもないから、全く的外れのことを言っているのかもしれないし、あるいは同じようなことは、どこかの誰かがとうに言っているのかもしれないけれど。

その実感を一言で表すならば、「あ~、日本って、戦後、社会とか人間の価値観をどう再構築するか、ってことをうやむやにしたまま、経済成長で何もかもこれでいいんだ、という気になって、それが翳ってきたら、それまでずっとそこにあった不動産なるものを突然むちゃくちゃ評価したり、若者を消費主体にひきずりこんだりしてなんとか経済成長を続けようとして、そんでもってそれがはじけてにっちもさっちもいかなくなっちゃったのね~。え~、じゃあ、私たちが今押し付けられてるのって、戦後処理なの?終戦から60年も経ってか?それを、ただでさえ人口構造やら何やらで先行きが大変そうなのにやらなきゃいけないの?勘弁してよ~」という感じだ。
あ、ぜんぜん一言じゃない。

いやぁ~、上の世代って何もかも人に押し付けておいて勝ち逃げしてるよな、というのは、多くの若い世代の感覚じゃないかと思うのですが、まさか第二次世界大戦の清算まで押し付けられてるとは思わなかったよ。いや、この私の感覚が正しいかどうか、というのはありますけどね。

なまじっか経済が急成長して世界でも有数の豊かな国になっちゃったせいで、もうこれでいいんだ、みたいな気分になっちゃったんじゃないかなぁ。
おまけに、その時代にうまいこと機能していた「企業戦士」やら「家族が過労死しそうに働く男を支える仕組み」やらなにやらを懐かしがる人の多いこと。政治家の偉い人とか、どー考えてもあれらの言動は、「あの頃、それでうまいこといってたんだからあれでよかったんだ」って感じでしょ?女の社会進出が良くないんだとか、働きたくないなんて若者はわがままになった、とか。
なまじっかな成長のせいで、たまたまその時うまくいっていただけ、という制度が強烈に学習されちゃって、状況が全く変わってるのに、それでまだうまくいくんだと思ってるんだから始末に終えない。表面上、どうとりつくろったところで、本音はそれだろ?みたいな人間のなんと多いことよ。

お前の今の豊かさ(私が日本の中で金持ちだということじゃなくて、どう考えても日本は世界でも数少ない豊かな国であるということ)はその時代のおかげだろ、と言われれば言葉もないわけだが、いやしかし、つくづく罪な時代だった。
いったい私たちは、これからどうすればいいんでしょう。

とりあえず、自分だけが貧乏くじを引いたと思って他の世代を羨んだり、別の立場にいる人を妬む(医者は高給取りだからけしからん、とかね)というのは問題の根本的解決にならないのは分かっているので、そういう安易な道に走らずに、何をすればいいか考えないといけないわけですが。ってエラそうだけど、結局、偉い人が一人で社会を変えるはずはなくて、何事も他人事にしないことが全ての第一歩、とは思うので。

注:水谷氏のコメントはただのきっかけに過ぎず、これらの私の愚痴とはなんらの関係もありません。ただ、物質的な豊かさが保障されれば精神活動に何も問題が生じないかといえば違うと思うけどね。貧しさが引き起こす問題というのは否定できないですが、もちろん。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-24 15:33 | 日々雑感 | Trackback | Comments(4)

「ポリアモリー 恋愛革命」

なる本を購入。いや、まだこれから読み始めるんで、正確にはカテゴリは「読んだ本」じゃないのですが。

そもそも、なんでこんな本を買ったかというか、ポリアモリーってなんじゃ、ってことなんですが、「複数」と「愛」からの造語なんだそうですね、この単語。
同時に複数の人を愛するという状態を肯定的に捉える言葉らしいです。

誤解を恐れずに言えば、私は多分、そういう考え方に対して、比較的、肯定的というか、寛容な方です。ただ、一夫一妻制度の下で法律婚しておいて、配偶者がいながら、配偶者に内緒で不倫とかやってて、そんでもって「いや、私はポリアモリー主義者なんで」とか言うのは許せないけど。そんなのただの身勝手でしょうが。
まぁ、その配偶者もそういう主義で、お互いに承知の上というなら話は別かもしれませんが。しかし、お互いにポリアモリー主義者だとして、なおかつ一対一の永続的な関係は結んでおくという状況はあんまり想定できないような。

私自身が、そういう人に寛容というか、そういう人を理解できる気がする、からと言って、うちの夫は、まず間違いなくそうした思想に否定的でしょうし、そういう人だと分かって、その夫とパートナーシップを選んだのは私ですから、私自身は、結婚生活を続けながら別に恋愛相手を持つということはしません。まぁ、誰かにちょっとぐらっとくる、ぐらいはしてしまうかもしれませんが(笑)。

で、著者はポリアモリーという考え方を世に広めようとこの本を書いたらしいのですが、家族機能、とりわけ子育ての問題をどう考えるのか、とか、単なる身勝手とどうやって区別するんだ、というあたりが気になって買ってみた本なのです。
ぱらぱらとめくると、ポリアモリーに理解を示す複数の人間での人間関係(大きな家族のような?)を作るような話も出てくるようなんですが、現状、特に日本では、婚姻関係と経済的な問題(扶養する、される)は不可分なので(というか、法律婚というのはそもそも、経済的な権利を守るためにあるものですよね)そのへんの問題をどう考えるかもありますね。
あとね、人間はむしろ大多数がポリアモリー主義者だ、みたいなことが冒頭に書いてありますが(だから多くの人は、一夫一妻制度を守ろうとして、結果的に結婚、離婚を繰り返しているとの見解)、いきなりそんな風に考え方を変えろ、と言われても難しい人も多いでしょうから、ポリアモリーに同意してくれる人の中から更に相手を探す、というのは、今でもけっこう難しいパートナー相手探しを、更に難しくするような気もいたしますが…。

なんか、買う前に思っていたよりだいぶ真剣な本のようではあります。ただ、逆に、こう、アメリカ人って真面目なんだなーというか、こんな問題を(と言っては失礼だが)そこまで真剣に追求していると(嫉妬心を乗り越えて、正しいポリアモリーを広めましょう、みたいな)すごく疲れそうな気もいたしますが…。

人類社会の多くが、ポリガミー(こっちは婚姻制度として、3人以上の人間が絡む婚姻制度)ではなくモノガミー(一夫一妻制。どうでもいいけど、私はこの言葉を、20年ほど前に荒巻義雄のキンメリヤ秘宝シリーズで覚えました。)を選択してきたことには、それはそれで十分な理由があるような気がしますが、そのあたりは、この本を読んでから、またゆっくり考えてみたいと思います。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-21 22:30 | 読んだ本 | Trackback(1) | Comments(5)

先にたたずとはよく言ったもの

早いもので、祖母の四十九日を迎えました。

11月の末に、自宅で転んで大腿骨を骨折して入院。入院先でも転院先でも、もともとの疾患のせいで手術は困難とされ、転院先の大きな病院で「では内科にうつれないか」と聞いたら、「うちの内科に入院しなければならないほど、内科的な状態が悪いわけではない」と言われたとのこと。

それで最初の入院先に戻されて、実はみな、退院後のことであたふたしていたのです。

そこらじゅうに転がっているありふれた話ですが、治療は終了したといわれても、自宅でひとりで生活できる状態ではない。祖父が亡くなってから、祖母は一人暮らしでした。トイレに手すりがついているぐらいで、もちろん、車椅子で生活したり出来る家などでは全くありませんでした。

正月をどこで過ごさせたらいいのか(子どもの誰かの家に引き取られるのは本人が拒んでいました)とみなが頭を悩ませていた12月、やっと老健が仮予約できた、などと言っていたその時、まさか、元旦に逝ってしまうとは、誰も思っていなかったのです。
そういう意味では、年齢はともかくも、残された私たちにとっては、突然に近い祖母の死でした。

車で30分という距離にいながら、あまり顔を見せていなかったことなど、後になると、本当に悔やまれることばかり。入院も、こんなことになるとは思っていなくて、祖母の方も「小さい子どもなんか連れてきちゃ駄目だ」と言っていたので、私が祖母に会ったのは、10月の終わり、前撮りした七五三の写真を持っていったときが最後でした。

春に、医師から勧められた透析を本人が拒否してから、先がそんなに長くないことは分かっていたことではありました。それでも、亡くなる2日前には、まだ、見舞い客と普通に会話していたという、あっけないような死でした。

先の短さが予感されていてもなお、悔やむことはあれこれと残ります。本当は、誰との別れも、いつ来るか、誰にも分からないというのに。

日々をもっといとおしまなければ、と思いつつ、「早くしなさい!」と子どもを怒鳴ったりする毎日が、また、いつものように始まります。その「いつも」が、ひとつの幻に過ぎないことを、時折、ふと思い出しながらも。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-18 21:22 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

一度きりの人生を何のために生きるのか

現在、私は

を読ませていただいて、久しぶりに、改めて日本の働き方、ということを考えました。

日本に戻って早6年。当初感じた逆カルチャーショックもずいぶん薄れてきているのですが、それでも今も時々、なんとかならないのか、と感じます。
私の場合、日本を離れていたのも2年間だけだし、そう偉そうなことをいえるわけでもないのですが、フランスで私が感じた一番のことって、日本みたいに必死に働かなくても、この国がそれなりにまわっているのは何故?日本との違いはいったい何?ということだったんです。

管理職を除けば、フランスの労働者の残業時間というのはほぼゼロです。統計にならないぐらい少ない。法的規制では、当時、確か(今は変わっているかもしれませんが)年100時間ぐらいまでしか残業をさせてはいけないことになっていました。(多分、週35時間労働制になってから変わってますね、この時間数は。)
日本から視察に来た人にこう説明して「年ですか?月じゃなくって?」と吃驚されたことがありましたね。
日曜日にお店が閉まっているのは、労働事情というより宗教事情なわけですが、夏に入ると、多くのお店もバカンスで閉まり(逆にバカンス地では営業してるでしょうけど)、問い合わせの電話とかかけると「担当者がバカンスなので分かりません、ガチャ」とかなるのは労働事情でしょうね。
もちろん、警察官がみんないなくなっちゃ困るし、私は2年間で医療機関のお世話になったことがないので医療事情に疎いのですが、病院が閉まっちゃうわけにもいかないでしょうけれど。

「残業代をきちんと払っているならともかく、サービス残業のおかげでコストを下げて国際的な競争をしているなんてインチキだ!」みたいに諸外国から非難されて、多少は労働基準監督署が入ったりもしているけど、日本の長時間労働はなかなかなくならない。
それを変えていくとなれば、しかし、今、私たちが当たり前のように享受しているサービス、例えば24時間、ふと足りないと思ったものがそこらじゅうで買えるとか、今日送った荷物が明日には遠く離れたところに届くとか、その他いろいろ、あきらめざるを得ないものが出てくるでしょう。

「こんな仕事、仕事の人生はやめましょう」と声をかけてみたところで、みんながやっているから、上司がやっているから、やらないと首になるから、ひとりだけ一抜けするのは容易ではなく、「ここまでのサービスは過剰じゃないの」と言ってみたところで、そんな声をまとめて何かを動かしていく手段もないから、サービスの質を落とすなどということも容易ではなく。

労働力の減少か、あるいは他の要因によって働く側がねをあげない限り、この構造はもはや変わらないのだろうか、と、結局は悲観的になってしまうのだけれど、それじゃあまるで、医療崩壊の構図と変わらないようで、それもなんだか憂鬱な話ではあります。

少なくとも、ある種のサービスの正確さだの迅速さだの豊富さだのに関しては、日本で当然、と思われているレベルは、世界の多くの国々においては信じがたいものなのではないかと、狭い経験から私は勝手に思っているのですが、おかげでその便利さが自分たちの首を絞めているのだとしたら、私は、もう少し不自由な生活であっても、いっこうに構わないと思うのですが。

でも、ではどの線なら受け入れられて、どの線は維持して欲しいのか、こうしたコンセンサスを得るのは確かに厄介なこと、というか、途方もないことなのは事実なのだけれど、このまま看過していれば、いつか、維持して欲しかったものもそうでなかったものも一緒くたに、全て崩壊、というシナリオもありえそうで、それが何より怖くもあります。

人生を仕事に捧げ尽くして、やっと定年が来てみれば、ぼろぼろの体が残っただけ、なんて…もちろん、仕事も生きがいのひとつではあり、喜びのひとつでもあるのですが、それだけのために生きるのは、私はごめんです。でも、そういう考え方が、ともすれば「わがまま」になりかねない日本で、どうやって職業人生を全うしていくか…これは私にとって、まだまだ、先の長い、気の遠くなるような課題です。
[PR]
by mmemiya | 2007-02-18 20:17 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)