La Lune Lunatique

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サクラサク

…という電報が来たわけではないのですが、ネット上では確かに、社会福祉士合格者受験番号の中に、自分の番号を確認しました。合格通知が来るまでは、実感はわかないんですけど。

あと、4月からの医療ソーシャルワーカーってのは、やっぱりダメだったんですけどね。

なんですが、仕事はちょっと替わることになったので、しばらくバタバタして、ブログ更新の時間が取れないでいます。
保育園のお迎えの関係で、残業がなかなか難しいもので、休日出勤でなんとかしのいでいますが、4月も休日出勤しないとまわっていかないかなぁ。うーむ。
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by mmemiya | 2008-03-31 19:43 | 医療ソーシャルワーク | Trackback

家事は手伝うのか分担するのか

買ったまま、まだ読み終わっていない本、というのが、なにやらどんどん溜まっていっているのですが、だいぶ前に買った「近代家族のゆくえ」山田昌弘、えーっと、これは読み終わってたんだっけ?大体。なんか、パラパラと飛ばしながら読んでたような…

この本の中で、ちょっと考えさせられたのが、「家事は、手伝うことはできても分担はしにくい」という話。家事の一部分を取り出して、「ここはやってね」とやってもらう、あるいは、「これはしておくね」とやっておく、ということは出来ても、家事ってのは分担はしにくいのだ、という指摘は、その部分自体はさほど長かったわけではないのですが、なるほど、そうかも、と思わされる指摘でした。

ゴミ出しをするってのは手伝えても、ゴミの分別の仕方、種類ごとのごみ収集日まで全部頭に入っていて、収集日までの不燃物とかを所定の場所へ一事置きしておく、というところまで一通りできなきゃ、分担する、とは言えない。

「これとこれを買ってきてね」と頼まれて食材を買い出しに行く、とか、冷蔵庫にあるものを使って食事を作る、ということは手伝えても、その後に作るメニューをおおまかに想定しながら買い出しに行って、冷蔵庫の中の食材だけでなく、調味料ストックにある小麦粉がまだ残っているか、砂糖がそろそろ切れそうなのか、といったことを把握しながら買い物を済ませてきて、その食材を無駄にしないように食事を作っていく、という作業全体を二人(以上)の人間で分担する、というのはなかなか困難。
(もっと言うなら、うちでいつも使っているあの調味料は、近所のいくつかのスーパーのうちのどこで売っているか、とか、これはどこの店が一番安いか、とか、そういう情報も必要になる。)

だって、二人ともが、現在の自分の家庭の状況をきちんと把握し、しかも、相手の行動も踏まえて常にその情報をアップデートしておかなきゃいけない、ってことだもんね。そんな大変なことをするよりは、一人が家事全体を把握しておいて、「あれして、これして」って、<お手伝い>を頼む方が、どちらにとっても楽なんじゃないか。
ということで、「家事の分担、分担」と簡単に言うが、実際のところ「お手伝い」以上の分担、というのは言うほど容易いことではない。

まぁ要するに、どんな仕事・作業も、ヘッドは一人でないとやりにくい、ってだけのことかもしれないけど。
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by mmemiya | 2008-03-22 20:06 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

情けは人のためならず

パート労働について、コメントをいただいたのだけれど、パートタイマーってのは、本来の定義だけなら、労働時間が、フルタイマー(日本の基準で言うと1日8時間労働)より短いだけ、の筈なので、理屈だけで言えば、6時間労働している人は正社員の3/4の給料、4時間労働なら正社員のちょうど半分の給料、であっても良さそうなものではあるが、実際にはそんな風にはなっていないところが大多数だろう。

130万円だか108万円だかの壁、と言われるものがある。「あった」という過去形に近づいているのかもしれないが。「税法上、配偶者控除の対象になるかならないか」「被扶養者(厚生年金保険料等を払う必要がない)なのか、扶養の対象外なのか」というあたりが、一定の所得ラインで左右されるため、配偶者控除の対象になり、被扶養者である、という程度で働くことを望む人がけっこういた。(あるいは、そう望むように政策的に誘導されていた、ってことなのかもしれんが。)その結果、パートタイマーは、さほど高賃金でなくても、就労希望者が集まっていた。

そうして育てられてきた?日本のパート労働の標準が、現在のワーキングプアなる言葉にさえつながるような、非正規社員の不十分な労働環境を準備してしまった、と言えば言い過ぎなのだろうか。

日本人はこれだけ残業をしていて、どうして暴動を起こさないんだろう、と、時々思うのだけれど(いや、私も結婚前は連日日付が変わる前後に帰宅・・・みたいな生活をしてて、暴動なぞ起こそうという気持ちは持ってなかったんだけど)、労働問題っていうのは、たとえ、自分が直接、そういった状況に置かれなくても、他人事だと切り捨ててしまうのは危険なんじゃないかと思う。

フランスにいた頃、よく、ストライキにあった。あるいは、バカンスの時期になれば、どこへ電話しても「担当者がバカンスなので分かりません」で終わりにされてしまうことばかりだった。
ところが、フランス人が、ストを起こしている人々やら、バカンスで対応してくれない企業やらに文句を言っている、というのは聞いたことがない。それは、やはり、多少の不便さがあったとしても、他人の労働問題は、まわりまわれば自分の労働問題にもつながる、という意識があるからなんじゃないだろうか。聞いてみたことはないけど。
ストなんて起こしてるのは、多くが公務員で(大体、彼の国は、公務セクターにいる人間が多すぎるんじゃないかとは思うんだけど、それはまぁ長いミッテラン時代の遺産だったりもするのかな)それ以外の人は、いかにフランス人とはいえ、「自分の仕事はストなんかと無縁」って人も、けっこういたと思う。個人事業主なんかストなんてやってらんないし。
でも、バスやメトロが、ある朝突然、ストに突入したりしていても、私の経験では、「あっちの◎番線は動いてたよ」とか、「このバス停でいくら待ってても、もうこの路線は来ないよ」とか、見知らぬもの同士で情報交換はしあっても、ストを起こしたRATP(パリ交通公団)へ不満が爆発、みたいな様子はなかった。地図を片手に東洋人が街角で立ち止まっていれば誰かが声をかけてくれる田舎とは違い、パリ市内で見知らぬ者に積極的に誰かが話しかけてくれる、なんてことは、ストの時ぐらいしか経験がないのだが、みな、しょうがないなぁ、という感じで、それぞれ対処法を考える、というのがストの時のフランス人らしかった。

そういや、郵便局ってのも、いつ行ってもものすごい行列だし、窓口の人は愛想ないし、できればあんまり近づきたくはない場所の一つだったが、夏のある日、最寄の郵便局へ行ったらば「この劣悪な労働環境に冷房をつけるための署名にご協力を!」みたいなことを言われ、確かにとても暑い日で、扇風機がまわっているだけだったから、私もははあ、と署名して帰ってきたのだが、あれも、ほとんどの人が協力していた気がするなぁ。まぁ、冷房は、来客のためにもなるといえばそうなんだけどね。ちなみに、パリ辺りでは冷房がない、ということそれ自体は、そう珍しいわけでもなかった。クーラーのあるカフェなんか、わざわざ外に「エア・コンディショネ」(エアコンされてます?)と張り紙してたぐらいだったし。

なんか、話がどんどん脇にそれた気がするけれど、要するに、自分の身の回りで提供されるサービスレベルやらなにやらに高度な要求をすればするほど、まわりまわって自分の首を絞めていくんじゃないかと思うし、「みんなこのぐらいは我慢して働いてるんだし」って思ってるうちは、もちろん、どこかの誰かが労働環境を良くしてくれるなんてこと、ありっこないどころか、ますます労働環境が悪くなっていっても文句は言えないんじゃないか、ってことなんだけど。
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by mmemiya | 2008-03-21 23:39 | 日々雑感 | Trackback | Comments(3)

電気圧力なべ+オンオフタイマー

電源のオン・オフが出来るタイマーを買ったので、早速、電気圧力なべにつなげてみた。これで、かなり便利になりました。

鍋付属のレシピ本で豚の角煮を作ってみたら、「・・・・。」という感じだったのだけれど、エダモン本に従い、下茹での際にだけ圧力をかけて、その後は普通に調理(鍋は、これまで豚角煮を作ってたのと同じル・クルーゼ)してみたら、これまでよりもうんと柔らかな角煮が完成。
買う前から分かってはいたことだけれど、やはり圧力鍋ってのは、下ごしらえ用の調理器具ってことね、と、再確認。いや、もちろん、下ごしらえ以外にも、料理によっては美味しくなるものもあるかもだけど。玄米の炊飯とかはやってみたことないし。

とまれ、購入後、主に下ごしらえ道具として、週1~2回稼動させる、という状態になっていて、この使用頻度はちょうど、フードプロセッサーと同じくらいだなぁ、私にとって。そういえば、最近、ちょっとマルチミックスの稼動頻度が落ちています。はっ、それだけ、手の込んだものを作らなくなってるってことか?まぁ、洋風のおかずを主菜にすることが少ないので、スープより味噌汁を作る方が圧倒的に多い、とか、色々原因は思いつくのですが。
でもニンジンがたまっているなぁ、そういえば。近々、にんじんスープでも作ろう。

圧力鍋も、エラソーなこと言いつつ、鯖味噌作るとか、牛スジとか豚バラとか牛すね肉あたりの下処理ぐらいにしか使っていないのが実情なので、ぼちぼち、もうちょっと、新たな料理を開発してみなければ・・・。
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by mmemiya | 2008-03-18 22:44 | 料理のこと | Trackback | Comments(3)

残業ゼロの仕事力

書評で見かけて興味を惹かれて買ったのだが、文字数としては少なめなので、割合、さらっと読み終わった。

おおむね、書かれていることには納得できたりはするのだが、こういう社長はきっとものすごーく例外的で、そんでもって、そういう例外的な人がトップにいない限りは、なかなか日本の「残業前提社会」って変わっていかないのだろうな、と、残念ながら、自分のおかれた状況に明るい展望が即持てる!って本ではなかったですね。まぁそんなこと、当然なんですが。

私は、日本の残業、とりわけサービス残業ってのは、国際競争という面から見たときに、国際社会から非難されても仕方がないと思っているんだけど(だって、本来かかっているべきコストが正しく計上されてないんだもんね)そういう面からよほどの外圧でもかからないかぎり、この国は変わらないんだろうな、と、現状にはかなり悲観的。

著者が触れていないところでいえば、日本とフランスの労働観の違いってのは、宗教に根ざすところがかなり大きいのではなかろうか。日曜日に働いちゃいかんのはキリスト教がそれを禁じているからだし、なんというか、カローシするまで働き続けるのは、彼の国の宗教と相容れないような気がするわ。(と、なんの検証もせず言ってみたりして。)そんでも、フランス辺りじゃ、まだ、日曜も市場はあいていたりするのですが、ドイツ在住の日本人はそれ見て驚いてました。ドイツじゃ、自分ちの庭の手入れなんかも日曜じゃご法度とか?労働観、休息観の違いというのはけっこう根深そうです。

あと、これを読んでいて、著者の言う本生(ほんなま、だそうな。「余生」じゃなくって、リタイア後こそが「あまり」じゃない人生だろ、ってことらしい)ってのは、言いたいことは分かるけど、そういや主婦ってリタイアがないんだよなー、と、ちらっと思いました。
昔のような同居前提だと、しゃもじ渡し、というか、主婦もヨメに譲って引退、って道があったわけですが、核家族ではそうはいかず、んで、私のような手抜き兼業主婦ならば、そりゃ、退職すれば、今、仕事に当てている1日あたり8時間の時間を本生にスライドさせることもできるかもしれないが、専業主婦の場合、本生の時間はいつ来るんですか、本生ってなんですか、と、ちょっと考えました。まぁ男性が発想するとそういうところまでは思い至らないのかも。
リタイアするんだから家事を分担すればいい、ってのは簡単に言うことはできますが、家事の分担ってのはけっこう難しい、って話は、山田昌弘氏の「結婚の社会学」だったかにもちらっと出てきたような。これはちょっと話がずれていくので、また、別の項で書いてみたいと思いますが…。

まぁ、この本自体は一読して損はない本、というか、経営者の方には是非読んでいただきたい本かな(笑)。
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by mmemiya | 2008-03-17 23:17 | 読んだ本 | Trackback | Comments(6)

教育できるものと出来ないもの

そもそも、このカテゴリに「子育て、子育ち」と名をつけたのは、子どもって、育てようとしたわけでもなく勝手に育つ部分があるよなぁ、と思ってのことだった。

まぁたとえば、極端な話、通常の発達をしてきた子どもがつかまりだちとか始めた時に、「ほら、歩くっていうのはこうやってやるのよ」と、手取り足取り教えるって人はあまりいなかろーし、必死にそばで「こうよ、こう」なんて見本を見せなくても、その子どもは歩き始める筈だ。

横浜にある「子どもの虹情報研修センター」の紀要(全文、ネットで読めます)に、「歩く」というのは人間の脳にどうもなんらかの形でプログラミングされてるらしく、昔、アメリカ先住民だったかで、子どもを、日中の農作業の間、まっすぐ何かにくくりつけておくという育児法を採用している民族がいたが、そういう育児の中で、ハイハイとかをしなくても、やはり子どもは歩くようになるんだ、という話が出ていた。
そうなると、ずいぶん前に物議を醸した「奇跡の詩人」のドーマン法って奴(歩くことが出来ない子どもにハイハイの姿勢をとらせて、大勢で手足を動かしてハイハイをさせる、そうすれば歩けるようになるはずだ、みたいな話が出てたはず)ってのは、その点だけを見ても明確に間違いってことですな。(ドーマン法のあやしさってのは、もちろん、そんなところだけじゃないんでしょうけど。)

まぁそんなことはともかく、最近思うのだけれど、誰かが子どもに教育をして、その結果、子どもがその影響を受けることって、人生に対する姿勢(というとやや大げさだけど)とか、ものの見方、みたいな部分だけかなぁ、って気がする。
勉強とか、運動とか、要するに個々人の「能力」に左右されるものってのは、教えてどうなるもんでもない、というと語弊があるかもしれないが、教えられたから伸びるってもんじゃないよなぁと思うのだ。
もちろん、教えられなきゃ知らないことなんて世の中にはいっぱいあって、だからこそ教育のシステム(端的にいえば現代の場合、学校)というのもあるのだけれど、それら、知識とかもろもろのものは、「教えなきゃ身につかない」ものである一方、「教えられても身につくとは限らない」ものだと思うのだ。
世界一流のコーチをつけたって、じゃあ、教えられた人みんながオリンピック選手になれるとは限らないというのは誰だって納得するだろうに、こと勉強に関していえば、早期教育とかに幻想を抱く人が多いのはどうしてなんだろう?勉強だって、どんな上手に教えられたって、理解度は結局、その子その子の素質に左右されるのは当然じゃないだろうか。
3歳までにすごい英才教育を始めようが、小学校へ上がる前に英語を始めようが、それによって、そういう教育を受けなかった子より、必ず英語が得意になったり、天才的な能力を発揮するようになる、なんてこと、言えないと思うんだけど。そういうところはきちんと割り切っておかないと、親も子も不幸になりそうな気がするな。

一方で、物事の捉え方、価値観ってのは、これは、親を始め、周囲の大人の影響を受けるところ大、という気がしている。だからこそ、家庭教育には、主にその方面が期待されている(た)のではなかろうか。
せんだって、息子と、「年中・年長児への性教育」みたいな講座に出てきたのだが、性教育、と言っても、とりあえず、第一回は「目はどんな仕事をしている?」みたいな、体の働きをちょっと考える、みたいなお話で、第二回は「おへその仕事ってなんだろう」みたいな話になる予定らしい。
で、うちの息子は、講師の問いかけに、率先して大きな声で反応していて「いいキャラですね~」(元気が良すぎる子どもを持った親に対するなぐさめの言葉みたいだったが)と講師に言われていたが、車椅子に乗った子どもが駅の階段の下にいるという写真を見せられて、「この子はどこのお仕事がうまくいかないんだろう」と問われ、率先して「足のお仕事!」と叫び、「この子は階段の上へ行きたいんだけど、どうすればいい?」と聞かれ、「坂のところ(スロープのことだろう)を探す!」「抱っこしていってあげる!」と答える息子を見ていると、とりあえず、街中で車椅子の人とすれ違って、「あれは何?」と聞かれた時の自分の対応は間違っていなかったのかな、と、思ったりしたのだった。
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by mmemiya | 2008-03-15 21:29 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(4)

桃尻語訳百人一首

小倉百人一首を暗記したのは、小学校高学年の頃だったのだと思うのだが、はっきりとは覚えがない。
正月にするカルタ取りで、母に勝てるようになったのも、やっぱり小学校の高学年だったのか、中学に入ってからなのか。

橋本治の「桃尻語訳」というのがあるのを知ったのは、けっこう前のことなのだが、これ、かなり高い本でもあり、購入はちょっと躊躇していた。でもとうとう、好奇心を抑えきれず、買ってしまった。

「秋の田の…」からはじまって、「ももしきや」に至る百首が、1ページ2首ずつ、橋本流に現代語訳されるとともに解説され、その後ろには、自分で切ってカルタにするように、と、古語のままの百人一首と桃尻語訳、要するに、計200枚のカルタが、切り取り線とともに印刷されている。

カルタを見て、息子がやりたがるので、まだ無理、もっと大きくなったらきっとやらせてあげる。お母さんだっておばあちゃんに勝てるようになったのはずっと大きくなってからだった、なんて話をしていたら、息子が「そのとき、誰がよむ人をやったの?」。ホントだ。母と私と、そして妹で競ってたのだとしたら、読み手になるのって父しかありえないわけだが、父がそんなこと、やってただろうか??

今でも、百首どれも忘れてはいないと思っていたのだけれど、改めてこういう形で読んでみると、存在そのものを忘れてた歌があるなぁ。久しく百人一首なんて触れてないし、100もあれば当然かぁ。いや、上の句を見れば思い出せるんだけど、「ゆらのとを…」なんてのを見て、ああ、そういやこんな歌もあったんだ、と、ちょっと吃驚したりする。
「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」じゃないから、他にも「ゆ」で始まる歌があるんだよなぁ。あ、「夕されば」なんてのがあるか、そういえば。「むすめふさほせ」にしたところで、あれ、「さ」ってなんだっけ、と、しばらく考え込む始末。そうそう、「さびしさに…」ですね。

百人一首のおかげで、古文への親しみを持つことができた、と思っていたし、前々から、子どもがもう少し大きくなったら、カルタ一式買おう、とずっと思ってきたのだけれど、でも、改めてこうして現代語訳を見ると、ううむ、この年になるまで全然意味が分かってなかった歌がけっこうあるものです。なんということか。
しかも、並び順の意味なんてのもあっただなんて。うーむ。
そして、相変わらず分かりやすい桃尻語訳ですが、これ、これだけ訳すの(しかもちゃんと五七五七七で)すんごく大変なんだろうなぁ。

この本の後半は、「カルタ」ということで、絵もたくさんついているので、子どもたちが読め読めとせがみ、少し読んでやったのだが、はたと気づいた。
この本の紹介文を読んだ時、どこかに「セックスが…」なる訳文がある、と出てたではないの。そんなページを広げてしまって「セックスって何」って聞かれたらなんて答えるよ~!
と、適当なところで「はい、今日はおしまい」と誤魔化してしまいこむ。えーっと、とりあえず、やはり普通の百人一首カルタを購入し、この本は、もう少し大きくなって勝手に読むようになるまで、しまいこんでおくべきなのかもしれません…。
(ちなみに、問題の歌は「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに…」の現代語訳。古語の「逢う」は、女性は通常、顔を隠していて、男女が顔を見ると言うことが、すなわち性的な関係にある、ということであった時代においては、そう訳しうるものなんだそうです。いやー、「見る」は当然「性交」を意味するとは思うけど、「逢う」は本来、ストレートにそう言い切ってるわけじゃないんだろうけどねぇ。解説読む限りでは、もちろん、そこも分かってて、あえてこの語で訳してるんじゃないかと思いますが。)
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by mmemiya | 2008-03-09 01:02 | 読んだ本 | Trackback(1) | Comments(0)

春告草…?

風はまだまだ冷たいものの、ガラス越しの陽射しはずいぶん柔らかく、もうすっかり春かと思わず勘違いしそうになる。

朝から息子の怪我の消毒のため医者に行き、その足で、4ヶ月に一度の定期検診のために歯医者に行き、とした帰り道、車の中で息子が「ねえ、暖房切ってよ、暑いよ」と文句を言う。
何言ってんのよ、暖房なんか入れてないわよ。それだけ今日は(風がなければ)暖かかった、ということだ。

午後、ふと、去年はいつ頃から蕗の薹が出ていただろう、と思いつつ、庭に出てみると、おお、蕗の薹発見!
去年は、2回は天ぷらにした、というものの、見逃して花を咲かせてしまった蕗の薹が20個ぐらいあったので(…どんな庭だよ・・・)今年は注意深く、さて、他にも出ていないか、と探し回ってみる。で、本日の収穫は5つなり。ま、相変わらず見落としているかもしれませんが。さてどうやって食べましょう。

私にとって、春を告げる草(?)と言えば、何をおいても蕗の薹、と思えるのだが、「春告鳥」というのはあっても「春告草」なんてないよな、と思いつつググってみれば、なんと、「春告草」とは梅の異称だそうで。そりゃまあ、梅に鶯とは言うものの、梅が草?よく分からんなぁ。

子どもたちに手伝わせ、ようようお雛様を片付ける。「来年も、また、お願いします」と深々とお雛様に向かってお辞儀をする二人。まぁこれほどお雛様が好きなのだから、来年も頑張らねばなりませんなぁ。
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by mmemiya | 2008-03-08 20:37 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

子ども部屋のがちょうおばさん

2つ下の記事にいただいたコメントを見て、思わず、Oh do you know the Muffin Man? ♪と口ずさんでしまった私ですが、そういえば、英米文学を語る上では、マザーグースというのも外せないですね。

私はマザーグースに、まず谷川俊太郎さんの訳で出会いました。どういうわけか、谷川訳のマザーグースの詩がところどころに印刷されている日記帳のようなものが家にあって、小学校低学年の頃、私はそれに、自分で作ったお話(もどき)とかを書き付けていたのですね。
あれ、何が載っていたのかなぁ…。「母さん泳ぎに行っていい?」なんて言うのが載ってた覚えはあります。

次にマザーグースと出会ったのは、恐らくメアリー・ポピンズの中。その後、クリスティーだのエラリー・クイーンだのに引用される詩を見て、で、改めて、谷川さんのマザー・グースを揃え、北原白秋訳の文庫を買ったり、なんてことをしてたのが中学・高校時代。
あ、カセットテープ付の本もこの頃、買ったと思うんだけど、いや、大学時代だったのか?どこのものだったのか…。オーピー夫妻の関連の本だったようにも思うんだけど…。

大学時代も、けっこう「マザーグース」と名のつく本は片っ端から(予算が許せば)手に入れていたなぁ。マザーグースの詩そのものの本だけでなく、関連読み物、例えば平野敬一さんの本とかもですね。
大学生協に、多少は海外で発行された本が置いてあったんだっけ?ケイト・グリーナウェイの本を持っていたはずだけど、いつどこで買ったんだっけ。音源付のものも、2種類は確実に持ってたはず。いやー、実家のどこへしまいこんだのやら。

後年、イギリスに行ったときも、マザーグースにアーサー王(こっちもあれこれ本を集めてたんです)と、本をすごく買い込んで、帰りの荷物が重くなって大変でした。(確か、預ける荷物の重量オーバーしそうになって、必死に手荷物にうつした覚えが…)
今となっては国外のアマゾンから、けっこう簡単に洋書が個人輸入できちゃうんですが、当時はそんなこと、想像できなかったしねぇ。

大人になると、逆に「マザーグースと名のつく本はなんでも」なーんて買おうとすると際限がなくなっちゃいそうで、もうそういう本を買わなくなって久しいですが、収集癖?っていうのか、一つの分野の本をだーっと集めちゃうところが私、時々ありまして。あ、もしかして、今は料理本がそうなのか。
そういや、中学から大学にかけて、ギリシア神話の本も20冊は軽く集めたと思う。(これはまぁほとんど文庫だけど。)

しかし、あの日記帳?は誰がどこで入手したものか、本当に謎なのですが、マザーグースとの初めての出会いが、谷川さんの訳だった、というのは、思えば幸せなことだったと思います。
今、確かめたけど、イラストは堀内誠一さん。和田誠さんのイラストで文庫も出ているようですが、いやー、やっぱり堀内さんの絵のこれが懐かしいわ、見てしまうと。
1975年が初版で、まだ版を重ねているんですものねぇ。いやー、このお二人の「ベスト版 CD付き」なんてのが、今、アマゾン見たら出てまして、ああ、「子どものため」とか言いつつ、買ってしまいそうだな。

育児って、童心に返る作業でもあるんですね、とか、訳の分からない言い訳をしてみたり。
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by mmemiya | 2008-03-07 21:38 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(6)

怪我続き

先週、娘が、ラップについている刃で足を切った。なんでそんなものが床に置いてあったんだ!という感じなのだが、なにやら持ち出して、あげく、それを放置したまま歩いていて、けっこう深い傷をつくって大泣き。一瞬、どうしようかと思ったが、まぁとりあえずしばらくして血は止まったので、消毒してキズテープを貼っておしまいにしてしまった。

その傷がやっと治ったかなという昨日、帰宅して、いつものように子どもが車から降りる時、息子が叫んだのでなにごとかと思えば、息子、自分でドアを閉めながら、指をはさんでいた。爪のつけね辺りの皮膚がかなり大きくえぐれていたものの、指そのものは無事だったようなので、ひとまず胸をなでおろしたが、消毒すればしみると騒ぐし(まぁ当たりまえ)さすがになかなか血が止まらず。

それでも、なんとか収まったかな、と思っていたのに、朝、起きると、娘が「布団にKちゃんの血がついてるよ」と言う。確かに点々と血のあと。傷口が動くとまだ開くらしい。
おまけに、キズテープをはがしてみると、なんとなく、じくじくしていて、膿んでこそいないが、いやこりゃ、やっぱ、医者へ行くべき?と、朝、「外科・整形外科」みたいな医者に連れて行った。
レントゲンまで「大丈夫だろうけど一応」とか言いつつ撮られたが、骨には異常なし。ま、消毒してもらって終わり、ではあったけれど、キズテープは止めろと言われてしまった。すいません、つい、圧迫した方が血が止まるかなーとか思っちゃうんですよねー。反省。

患部は濡らすな、と言われたが、右手の人差し指である。そりゃなかなか困難よ。しかし、自分でドアを閉めるようになってもうずいぶんになるので、まさかこんなことをやらかすとは思ってもいなかった。
まだまだ、これから、骨折だのなんだの、怪我との付き合いは続くんだろうけど、骨折ならともかく、擦り傷みたいなものって何科にかかるのが正しいんだろう、とか、まず最初にそれを考えてしまった。骨に異常はなくても整形でいいんでしょうか…。診療科って、分かるようで実はよく分からん…。
(で、連れて行ったところは、一応、「小児外科」まで標榜しておられるが、子どもの患者は皆無でしたとさ。待合室に絵本が山ほどあって助かったが。)
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by mmemiya | 2008-03-06 23:47 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(2)