La Lune Lunatique

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夏の総括

いきなり秋のようになったかと思っていたのに、今日だけは何か少し夏が戻ってきたというのも不思議な感じですが、いやぁ、しかし、この夏は雷が多かったですね。

おかげで、ブログ更新しようかな、と思う日に限って、PCの電源を引っこ抜かざるを得なかったり。ちなみに勤務先は落雷で電話交換機が壊れたりしています…。

このところは梅雨時みたいにじめじめしていたので、今日は久々に晴れて、やーっと布団も干せて、ありがたいことでしたが、息子が「一度は市民プール(屋外プール)に連れて行ってくれ」と言ってたのに、今日はやるべきことが多すぎてそれどころじゃないし、昨日は一日雨だったし。まぁ、息子は忘れてるみたいですが、これがまた、変なときに突然思い出す奴なんだよなぁ…。来週までしか屋外プールやってないので、来週の土日、どちらかに時間が作れるといいんだけど。

この息子に関しては、ちょっと「やっちゃいけない」ことをやってしまったときに、どうも「怒られたくないので、本当のことを言わない」という癖がなかなか抜けず、このところ、時々、どうするのが一番いいのかなぁ~と、たまに考えます。まぁ長い目で見ながらやっていくしかないとは分かってるんですがね。

夏の1泊2日浜名湖旅行について、忘れないうちにメモしておきます。(ってかそろそろ行って来て1ヶ月近い…)

・これまで夏の恒例にしてきた長野(蓼科近辺)より、距離はうんと近い(半分か?)筈なのに、東名の渋滞で、けっこう時間がかかった。(出発前に予定外の私の皮膚科受診があったこともあるけど、現地着が昼過ぎ…。)特に、伊勢湾岸道等との合流地点、2車線合流してくるのに本線もずっと2車線のまんまって、構造的にどー考えたって渋滞するに決まってるじゃん!

・はままつフルーツパークの果物収穫体験、午前中で終わってしまっているかと思ったが、昼過ぎに行ってもじゅうぶん間に合った。ぶどうだけしか体験しなかったけど、みなさん、けっこう、複数の果物を収穫していた。クーラーボックス持って行くべきでした。(宿には冷蔵庫がなかったので、慌てて食べた。)
また、フルーツパーク内にはきれいな川があって、川で泳げました。小さな魚もいっぱい。娘もちっとも怖がらずに、夫と一緒に、子どもの足は付かないところまで行って泳いでました。息子は、両腕にヘルパーつけて、対岸まで泳いだり、かなり頑張って泳いだので私もちょっとびっくり。まぁそれなりにプール教室の成果は出ているってことかな。

・宿はとても小さいところでしたが、宿の人は親切でした。部屋に冷蔵庫がないのはちょっと誤算でしたが、チェックアウト後も車を置かせてもらったし、朝食も美味しくいただきました。

・海水浴場、まぁ、ものすごく綺麗、とは言えないけど太平洋側では普通なのかな。波打ち際はちょっと汚かったけど、進んでいくうち、それほど気にならなくなった。ものすごく遠浅で子連れ向き。ただ、8月上旬なのに、もうずいぶんくらげがいて驚き。
泳ぎながら、手で足元をちょっと掘ると、あさりがすぐ採れる。個人でちょっと採るぐらいなら無料で持ち帰れるらしいが、クーラーボックスもないため、これも断念。

・お昼を食べたところ、アサリ汁がもんのすごくたくさんアサリが入っていて、その他もけっこうボリュームがあってなかなか良かった。

・宿の駐車場に車をおかせてもらって、浜松市動物園へ、かんざんじ温泉の無料巡回バスで出かけたものの、動物園の意外な広さにびっくり。動物と動物の間がものすごく広く取ってある。いい公園なのですが、帰りのバス(最終バス)の時間のために、最後の方が駆け足になっちゃったのがちょっと残念。

全体としては子連れ旅行にはなかなか良かった…と思うんだけど、行きも帰りも平日だってのに10キロもの渋滞に嵌まったのはなんとも…。夫はもう来年はあまり行きたくないらしい。
あと、私があさりを掘ってたら、息子も掘りたがって、腕のヘルパーを外しちゃったんですよ。で、そろそろ上がろうか、ということになって、娘と私はシャワーを浴びに行ったんだけど、息子は最後にもう一度海へ向かっていたんですね。ところが、最初よりもちょっと潮が満ちてきてたことに気づいてなくって、戻れなくなっちゃって、夫が助けに来るまでしばらくブイに掴まって待っていた息子。少し水も飲んだらしく、「僕はおぼれかけた」と、今回の旅行は楽しかったけど、おぼれかけたのだけは楽しくなかった、と申しておりました。

ああ、雑草がのびすぎております…。久々に少し暑い日ですが、ぼちぼち働かねば…。

そうそう、プール教室といえば、今年度から、娘と息子を市民プールの同じ幼児教室に入れられる!と思っていたら、定員40名に対して46名の希望のため抽選となり、娘だけ見事に外れてしまいましたよ…。残念。多分、冬(次の教室は1~3月)は希望者ちょっと減ると思うんだけど、どーだろーなー・・・。
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by mmemiya | 2008-08-31 14:35 | 日々雑感 | Trackback(1) | Comments(0)

つーことで自分の受けた英語教育を振り返ってみる

私は、基本的に、自分が中・高と受けてきた英語教育に、実はあんまり不満を持っていないのです。
(大学でも第二外国語は英語でしたが、高校までの授業の応用、みたいな感じだったので、一応、中・高と書きました。)

それはなぜかと言うと、私は自分の現在の生活の中で、特に英語について不自由を感じてないから、です。基本的に、英語なんぞ日本での日常生活にほぼ要らないわけですから、これが英語圏在住とかなら、また、感想も違ってくるのかもしれませんが。

大学卒業して、初めて海外旅行をしてみたところ、とりあえず、自分は英語圏でパッケージプランじゃない旅行をするのに困らない程度には英語を聞き話せる、と自分では感じました。
ちょっと知りたいと思ったことについて英文のウエブサイトをざっと読み流す程度には英語を読みます。何かの本やウェブに「アメリカでは云々」と書いてあると、裏づけを取るために英文の関連サイト探したり、とかですね。あと、必要とあればちょっとした英語のEメールは書きます。(それが充分にPoliteかどうかの判定は自分ではできませんが。)

それで現在の私の日常では困ることは何もないため、多分、私の英語力がこれ以上向上するのはちょっと考えにくいですね、現状では。そもそも、このレベルからの劇的な向上ってのは簡単ではないだろう、と予想はつくし、そこを乗り越えるためにものすごい努力をするだけのモチベーションがない。

子どものころを振り返ると、多分、この世に英語ってものがある、と知ったのは、叔母を通してだったんじゃないか、と思います。母の弟の配偶者だった人なのですが、母より8歳ほど若かったはずで、私にとっては、ひとまわりちょい違うだけの、都会の、綺麗な憧れのお姉さん的存在の人でした。
私が小学生の時、神戸で、ポートピア博覧会、というイベントがあったのだけれど、この叔母が、会場でボランティア通訳か何かをしていたような記憶があります。その前なのかその後なのか、英語のポップアップ絵本もプレゼントしてもらったような。
あと、中学に入る前、家にシリーズで揃えてあった学習事典(祖母が買ってくれたんだと思う)「旺文社教科別学習大事典 ジュニア・エポカ」で、確か「英語」もあって、それを読んでいました。当時のことだから、音声教材なんかはついておらず、音として英語を聞く機会はほとんどなかったとは思うのですが、多分、私は、中学での英語の授業を、楽しみにしていたんだと思います。
で、だから、中学へ入るとすぐに、NHKのラジオ「基礎英語」を聞き始めたんじゃないかな、と思うのですが、自分がどこで「基礎英語」の存在を知ったのかは思い出せません。店頭にテキストがあったからかなー。あと、親にねだってリンガフォンのテープを買ってもらったのも中学のときなのですが、あれは、多分、悪くない教材だったんだろうけど、高かった割に活用していません…。申し訳ない話です。

中学2年のとき、日本を公演して周っていたルーマニアからの劇団がうちの市にも来て、お芝居を見せてくれたことがありました。当時、その公演の主宰サークルの代表を、私の母が務めていたのですが、公演後、ささやかな歓迎行事が催されたとき、うちの母は私をその人たちの前に連れて行って「ジスイズマイドーター」と言っただけでどこかへ行ってしまいました。
いきなり一人で国際交流?させられることになった私が何をしゃべったかなんて覚えてやしないのですが、何年英語を勉強しているんだ、と聞かれて「Two Years」と答えたことと、最後に彼らが「See you in Bucharest」と言ったような気がした…ということだけは覚えてます。ちなみに、ウチの母はそれを聞いて早速、サークルの会報に「次はブカレストで会いましょう。 そう言って彼らは帰っていった…」みたいな文章を物しました。文章自体は覚えていないけれど、なかなかの名文だった記憶はあります。でも母よ、それを聞いたのはあなたじゃない、って感じだったんですけどね、私としては。

高校に入った後は、最初のうちこそ「ラジオ英会話」のテキストを購入したりもしていたのですが、やがてラジオ講座を聞くこともなくなり、私の「学校の授業以外での英語学習」はここで打ち留めとなります。

中学高校は普通の公立高校で、取り立てて変わった英語教育など、受けた筈もありません。高等学校では、われわれの世代ではもはや知る人も少ないであろう「ヤマテイ」こと山崎貞さんの「新々英文解釈研究」なんかを使用する、乱暴に言えばかなりアナクロな英語の授業を受けました。
なんたってあなた、この参考書、著者の息子さんが「父が亡くなって、もはや四半世紀が過ぎたが、こうして使い続けていただけるのはありがたいこと…」みたいなコメントを寄せておられ、四半世紀もまだ生きていない高校生にしてみたら、な、何それ!みたいなカルチャーショックを受けるには充分でした。もちろん、それだけの名著である、と言えばそうなのでしょうが、さすがに現在は絶版になっているようです。(初版は大正元年らしい。ヤマテイを駆逐した、と著者が自負する伊藤和夫の「英文解釈教室」の初版が昭和52年。それだって私が小学校に入る前に出てるじゃん!ちなみに、3つ年下のわが妹は、同じ高校の出だが、もう、ヤマテイは使用していません。)ちなみにこの本で覚えているのはもうクジラの構文だけですが、あんなもの、使う機会は一生ないような気がします。

ざっとこんな経緯で現在にいたり、今の私は、学校で習うだけの英語で、基本的には英語学習なんて充分じゃん、と思ってるのですが、それはやっぱり、単なる向き不向きの問題も絡むと思います。教科としての英語は、中高を通して私の得意科目でした。それがEnglishにどう結びつくかは、また別の話ではありますが。
あとこれは、あくまで自分の世代が受けた英語教育前提の話ですね。楽しくコミュニケーション!を重視した英語教育では読み書きリテラシーの方がおろそかになりがちってことはあると思います。一方で、私の受けてきた英語教育ではリスニングの方が不十分で、私はそれをラジオ教材なんかで多少補ってきた、ってことなのかなぁ。
それと、文章を作る方に関して言えば、文法という理屈をある程度飲み込むだけでなく、一定量の文を理屈ではなく覚えこむってのはけっこう重要ではなかろうか、と感じます。そういう意味でも、ラジオ講座のスキットを、当時はほぼ全部暗記していた、ってのは大きかったのだと、今にして思います。
対して私のフランス語のほうは、まぁ大学で習ったのは2年間だけなのですが、とはいえ、週に5コマの2年間、ものすごく足りないわけではないでしょう。文法だけをいうなら、もはやフランス人でさえ滅多に使わない単純過去なんてのまで一応習ってるわけですから。(フランス人に「パッセ・サンプルを習った」というと、大抵は驚かれます。)にも関わらずフランス語力がいまひとつなのは、理屈抜きでとりあえず頭の中に覚えこんだ仏文が、多分、少なすぎるのだと思ってます。

実は、20代も後半になって、少しだけ、いわゆる英会話学校に行ったことがあります。フランスに行く前の一年弱、仕事が終わった後の夜間、週に1回だけ、ベルリッツって所に通ったんですよ。フランス語力がかなり初歩的レベルだったので、これなら英語力のブラッシュアップをした方がまだしも実用レベルになるんじゃないか、と思って、当初、月の半分は英語、半分はフランス語のレッスンを取ったのです。でも、フランス語の上達が相当遅いので、こりゃ、限られた時間で両方やってもどっちつかずになるだけだわ、と、2ヶ月ぐらいで英語のレッスンはやめてフランス語に専念することにしました。
当初のベルリッツのレベルチェックで、フランス語はレベル3(中級の一番下。旅行が出来るレベルよりちょっと上ぐらいとか。)、英語はレベル5か6(中級の後半。日常的な問題なら大体対応できる、ぐらい?)って所だったはずです。

と、長々と振り返ってみると、学校教育だけで充分、であったのか、3年間、平日は毎日欠かさずコツコツと聞き続けたラジオ講座の存在がかなり大きかったのか、判断に迷うところではありますね。
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by mmemiya | 2008-08-23 01:24 | 日々雑感 | Trackback | Comments(4)

英語力幻想 金森強

「読んだ本」というか、正確には、また「読みかけの本」です。

ここのところ、また、英語に関する本をいくつか読み漁ってます。

そうそう、一週間前の金曜、息子が夫の実家にお泊りをすることになっていたのですが(というか、土曜のつもりでいたら、前日に「明日おいで」に変更になってた)なんと、当日の土壇場になって、保育園に迎えに行くと、娘が「Cちゃんも泊まる」と。あんた、あれだけ「お母さんと一緒じゃなきゃやだ」と拒否しまくってたくせに~!!って感じでしたが、二人とも夫の実家にお世話になりました。
今回は、平日ということもあり、保育園から夫の実家に送り届けた後は、まったくお任せしてしまいました。翌日は11時ちょい前ぐらいに行ったところ、ビニールプール(子ども5人全員入れる、かなり大きいのがある)で大はしゃぎしてましたわ。

んで、せっかくの?めったにない「子どものいない日」だったのですが、夫は帰ってこないし、電話しても留守電になっちゃうしメール打っても返事来ないものだから、家を空けることもできず、夫が帰宅した21時ごろまで、相も変らぬネット三昧をしていたのですが、夫の帰宅後、久々に長時間、本屋で過ごしてきました。このときも、この本ではないのだけれど、英語の本を買ったりしました。いや、語学コーナーに、原書の「プー横丁に建った家」(くまのプーさんの第二作)があったもので、「そういや、<いすがし すぎかえる>」の原文ってなんなんだっけ?と買ってしまった。しかし、原文の「backson」は、何かの動物名を直接もじった、ってことじゃないのかも?あれ、バイソンってどんなスペルだっけ。ストーリー覚えてることもあってすいすい読み進めることはできるものの、分からない単語が思った以上に頻出してびっくり。児童文学だから、正直、こんなに分からない単語が多いとは思わなかった・・・・。大抵は形容詞なので、無視して読んでも大意はつかめるんですが。

ってなこととは無関係に「英語力幻想」。<なんとなく、子どものころから英語を学んだ方がいいでしょう?>ってな言説の曖昧さを色々と指摘しつつ、小学生から英語教育を始めるとすれば(この著者の言ってることは英語教育というより、コミュニケーション教育なんですが)どうすべきか、を検討した本、と言っていいのかな。
個々の指摘には、私が前から感じていたようなこともあり、また、なるほど、と思わされるものもあり。
この方は音声学方面の方、ということもあり、発音にまつわる部分もけっこう興味深いところがあります。著者が実践しているのは幼児ではなく小学生相手の英語教育なんで、話はどうしても小学生のことになるわけですが、「母語の音韻体系が出来上がっている高学年の児童に発音指導をするのは無駄 のちに必要になった段階で、知識として調音様式や調音位置を理解しながら身につけていくほうがよほど簡単」というのが著者の見解。
よほど簡単…かどうかは分かりませんが、まぁ少なくとも、現行の教育現場のリソースで、ホンのちょっとの「発音指導」をやったって、大した効果が上がらない(どころか場合によっては逆効果)なのは確かでしょうね。この人は、発音指導よりも、英語を聞く絶対量のほうが大事、という見解のようです。
ただ、ご自身の体験としても、最初に中学で英語の授業が始まったときは、「勉強すれば世界の色々な人たちと話が出来るようになる」という期待に胸を膨らませていたのが、次第に「覚えた規則を使用しながら、パズルや暗号を解いたり作ったりすること」が英語の勉強だ、と、当初の期待は幻想に過ぎなかったのだと分かり始めた、と書いておられるのですから、そのあたりの、現実の言語としてのEnglishと教育の乖離(教育として扱う以上、乖離が生まれること事態には避けがたい面もあるでしょうが)についてはどうお考えなのか、その辺を気に留めつつ読み進めたいと思います。<先生から「今の発音はよかった」などと言われると、英語を話せるようになる可能性が残されているように思えてうれしくなったものです。しかし、それも今振り返れば錯覚でした>と、以下、中学における発音指導の稚拙さを指摘しているのですが、発音指導を「無駄」だけで切り捨てていいものなのかなぁ・・?というのは素朴な疑問。小学校では無駄だけど、中学ではやるべき、と、この後に書いてあるとは考えにくいしなぁ。

ところで、先日から漠然と思っていたことが、この本を読みながら明確になっていった。
これまでの中学・高校における英語教育に対し、「あんなに勉強したのに使えるようにならなかった」という思いを抱いている人は多いようで、それゆえに「子どもの頃に始めれば英語ができるようになる」という錯覚が広まり、児童英語教育への期待が高まっているのではないか、と、この本には書かれていた。恐らく、その通りだろうと思う。
で、私が、早期の英語教育に懐疑的なのは、言語ってものをそう安易に考えるのはどうよ、という思いが第一にあるのは間違いないが、どうも、自分が過去受けてきた英語教育にあまり不満(「怨念」という人もいるそうな)がないから、という側面もあるよなー、と、先日来、ぼんやり思っていたのだ。多分、そのあたりが関係してるのは間違いなさそう。

それはさておき、本書はなんとなく、私には役に立ちそうだ。わが子がこれから進む小学校にも、どんな風だか知らないが、総合的な学習の時間を利用して、英語の時間があるらしい。そうピントの外れたことをやってなきゃいいんだけど、親の目から見てちょっと…という教育が、もし行われていたとしたら、親としてはどんな形でそれを補完していったらいいのか、ということが、うっすら見えてきそうな本、という感じがする。まだ半分しか読んでないだろ、と、自己ツッコミはしておくが。
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by mmemiya | 2008-08-23 01:02 | 読んだ本 | Trackback | Comments(9)

裁判は原因究明の手段にはなりえない

福島の事件に、無罪判決が下りた。

亡くなられた方には、改めて、心からご冥福をお祈りしたい。

判決そのものは、これまでの様々な情報や今回の判決要旨を見ると、妥当なものだろう、と思える。
ただ、残されたご家族としては、今なお行き場のない思いを抱えておられるようで、無理からぬことではあるが、ご本人達にとっても、苦しいことだろうと思う。

以前、医師であるabsinth先生が当ブログに、以下のようなコメントをくださった。

<患者さんが亡くなった時私は恨まれても仕方ないと思っていますし、自分が同じ立場であったら同じように恨むだろうとも思います。恨まれる以上に自分が救えなかったというそのことによって医師は十分苦しんでいるのですし、そこに恨みが加わったからといってどうということはありません。それはたいした問題ではないのです。>

しかし、生涯そんな恨みを強く感じ続けていく、というのは、恨む当人にとっても、辛いことではなかろうか。
どんなに手立てを尽くしても、命が救えない時があり、お産で亡くなる人がゼロになるということも、きっとない。それは「運命」としか呼びようのないものではあろうが、他人が「運命だ」などと、遺された人々にしたり顔で言ったところで、その人々の苦しみが癒えるはずはない。苦しみとは、どんな種類のものであれ、時間の流れの助けを借りながらも、苦しむその人自身が乗り越えていくしかないものだろう。

「どうしてこうなってしまったのか」「本当のことが知りたい」と、こうした場合に、遺された人が思う、というのは、これまた、ごく自然な感情だ。しかし、残念ながら、裁判というのは「本当のことを知る」手段ではないのだろう。それは、分かっている人にはきっと自明のことなのだろうが、私は今回の事件の経過を追っていて、改めて、強くそう感じた。裁判は原因究明の手段ではない、と。

裁判とは、法に照らして、ある人が有罪と呼べるかどうか、を判断する場でしかない。有罪であるかどうかを検証する過程で、今回起こったことは防ぎえたことなのか、とか、なぜそうしたのか、といったことを検討する場面はあるだろうが、原因そのものを究明することは、そもそも裁判の目的ではない。「なぜ起こったのか」ではなく「起こったことは過失によるものなのか故意によるものなのか偶然によるものなのか必然だったのか」と言ったことが、裁判では主眼となるのだろうから。

そうした意味で、今回の裁判は、恐らく、被告にとっても遺族にとっても、不幸なことだった、と思う。

原因究明のための第三者機関を作る、というのも、言うはたやすいが、実際にはなかなか難しいことのようだ。だが、それにしても、「本当のことを知りたいから裁判に訴えるしかない」という不幸な誤解(と言い切ってしまおう)を変えていかなければ、この種の事件は無くならないように思える。

ところで、日経のヘッドライン<帝王切開死に無罪 医師が現場復帰に意欲、遺族「残念な結果」>という書きぶりに嫌な感じを受けるのは、私だけだろうか。
しかしながら、このような経験をされてなお、K医師が臨床医を続けるお気持ちがある、ということに、私は心を打たれた。

どうか、遺族にも被告にも、一連の出来事で受けた苦しみを、少しずつであっても乗り越えていって欲しい、と願うばかりだ。

追記:8.22 刑事事件だというのにご遺族を原告と混同しておりました…すみません…
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by mmemiya | 2008-08-20 23:22 | 日々雑感 | Trackback | Comments(6)

幼児英語教育の目標って?

娘が受動態をしゃべったことがあったっけ、と書いた翌々日、ちょうど、娘が、二つの人形を抱きかかえながら、「ちい(人形の名前)がジナ(これまた人形の名前)に抱っこされてる」と言いました。受動態、マスターしてるようですね、一応。

まぁ、子どもが何か面白いことを言った!と思っても、実際の子育っててのは、次の瞬間に兄弟げんかが始まったり「◎◎割っちゃった~!」だの「おしっこ~!」だのに振り回されるもので、なかなかメモなんてできず、そのうち、子どもがしゃべった文章の正確なところなんぞどっかへいってしまうので、別に私も、毎度、子どもの発言を、ヴォイスがテンスがアスペクトが・・・なんて追いかけているわけでは、さらさらないのですが。(そもそも日本語のテンスやアスペクトなんて、学者によって言うことがだいぶ違うんで素人には訳わかんないし。)

ただ、実際に子育てをしていると、言語獲得、ってのは、ものすごく興味深く思えてきました。大学で言語学かじった割には、生成文法とかまるで興味なかったんですけど。(今思えば、私のいた学科にはその専門家がいらしたというに、私はその先生の授業を取ったことがない!なんてもったいないことをしたことよ。)

生成文法派なのかアンチ生成文法派なのか、ってことはともかく、母語の獲得ってのは、色々言われていることはほとんど仮説に過ぎず、実際のところはよく分かっていない、ってのが本当のところなんじゃないかな、と思います。一言語空間における母語の獲得ですらそうなんですから、二言語以上を同時に獲得しようとするというのがどういうことなのか、ってのは、相当謎に包まれてるんじゃないでしょうか。

日本語話者を両親に持って日本語環境で育っている子どもに、幼いうちから英語教育をしようとしている(あるいは現にしている)人のサイトをちょっと見てまわっても、そのあたりのところをどう考えているのか、ってのは、あんまり見えてこないですね。なんとなく、小さいうちから始めた方が身につくんじゃないか、自分は英語習得に苦労したから、早くからやれば苦労しないんじゃないか、程度の、漠然とした認識の下に取り組んでる、ぐらいにしか見えない。

小さい頃に始めることが、大きくなって始めることと比べてどんなアドバンテージがあるのか、というのはまた、とりもなおさず、幼児に英語教育を始めた場合の目標をどこにおいているのか、ってことともつながっていると思うのですが、なんか、ざっと見た限りでは、それらの人の目標というのもよく分かりません。到達目標として、どんなところを目標にしているんでしょう。

「日本語と同等レベルに英語も使えるように」って言うんだったら、幼児期だけじゃなく、大人の英語が使えるようになるまで、少なくとも10代半ばぐらいまではずーっと英語学習を支援し続けないといけないわけですよね。幼児期は各種教材で英語を覚えさせるとして、大人の英語にしていくためには具体的にどんな手段を考えてるのか。インターナショナルスクールに入れればなんとかなる、って考えるのかな。一定の間、使わなければ、母語ですらさびついていくわけで、とにかくこのレベルを目指すんだったら、最低10年以上はずーっと日本語英語併用状態を続けていかないといけない。日本語環境の中で、これは、並大抵の努力じゃ無理でしょうね。

「そこまでは望んでないわ、ちょっと英語に親しみを持ってくれれば」っていうんであれば、なんでわざわざ幼児からはじめないといけないのか、ちょっとよく分からない。まぁ、他の習い事と同じようなもの、って感覚かもしれないけど、モノは言語ですからねぇ。英語に費やす時間分だけ、母語に費やす時間が減るわけで、母語が確立する前に、母語のための時間を削る必要性が私にはピンと来ません。要するに、「どうしても幼児期でないと遅いんだ」みたいな確たる根拠があれば、その必要性も理解できるのですが。

どのレベルで英語を入れようと思っているのか、そのレベルで英語を入れるためにはどんな手段が最適なのか、ってことが充分検討されてるのか???って感じがして、そうして更に、仮に目標を立てて手段を決めたとしても、思ったとおりの成果が上がるとは限らない、ってことをどう考えているのかがピンとこないんですね。

両親の一方が非日本語話者とか、両親は日本人でも周囲の環境が日本語環境じゃない、ってケースは、そんなことを言ってられないわけで、日本語+英語教育をやらざるを得ないという人は、世の中にたくさんいるでしょう。その場合は、「どんなアドバンテージが」なんて言ってる余地はないわけです。でも、その場合でも、どのレベルを目指すのか、ってのは、きっと考えなきゃいけないでしょうね。いつまで二言語併用を続けるのか、とか。

まぁ、自分と関係ないので別に、それぞれの家庭がそれぞれのお考えでやっていけばいいこと、なのかもしれないけれど、なんだか、こう、この国はどこへ向かっているのかなぁ…って感じで、どうも、気にかかってしまうのですよね・・・。
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by mmemiya | 2008-08-20 22:38 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(8)

ペラペラですか?

「フランスにいたことがある」と言うと、すぐに「じゃあ、フランス語はペラペラですか?」と聞いてくる人が、少なからずいる。残念ながら、私のフランス語力は、ものすごく限定的なものだ、という話は前にも書いた。しかしところで、そもそも、「ペラペラ」って、なんなのだろう。

例えば、うちの4歳児と6歳児は、そろそろ日本語ペラペラ、と言っていいような気がする。
6歳児の方は、基本的な文法は、ほぼ全部入ってると思える(敬語は、まだ一部の丁寧語しか、マスターできていないが)。4歳児も、発音としてはサ行音、ラ行音までほぼ完成していると思えるし(断言できないのは、どうも、彼女の中では例えば「ディ」と「リ」の区別がまだ付いていないようだから。しかし、「ディ」ってのは、本来は日本語の体系の中にない音のはずで、そういう意味では、日本語の発音はほぼ完成と言っていいはずだ)、語彙力で兄に劣るとはいえ、文法的にはあまり遜色ないレベルになってきたのではないか、と思う。ああ、そういえば、下の子が受動態を使うのを聞いたことがあったかどうか、記憶にないのだが。
そもそも、私は別に子どもの言語発達に詳しいわけでもなんでもないし、詳細に自分の子どもの発言を録音して分析したりしているわけでもないので、以上はあくまで、日々を振り返っての印象でしかないのだが。
実は昨日も、娘が「たとえば…」と発言して、「おお、<たとえば>なんて話し出すのか!」と、そっちの方に意識が引きずられてしまった挙句、その後、娘が何を言っていたのかさっぱり思い出せない(笑)。とんちんかんな表現が続いていたら、逆に覚えてるような気もするので、となると、適切な比喩が続いていたんだろうか。

まぁ、いずれにせよ、子ども達のコトバそのものをとりあげてみれば、充分、正しい日本語を話しているし、発音も流暢である。が、それが大人に立ち混じって社会の中でやっていける日本語であるか、と問われれば、当然、答えは否である。まず、決定的に語彙力が足りない。表現力、というのも語彙と密接に関係するだろうが、それも不十分。そして、フォーマルとインフォーマルの場面に応じた使い分け、というのも未熟だ。(言語を成り立たせるところの思考力そのものが未熟である、という話は、この際、脇に置いておく。)

しかしながら(しばしば言われることではあるが)、「英語がペラペラ」というのは、どうかすると、うちの子らの現在の日本語力ぐらいのレベルを指してるんじゃないの?としか思えない時がある。もっと簡単に言っちゃえば、発音がネイティブに近ければ、それでもう、「とても上手な英語を話してる」と思われてしまう、ってことなんだけど。

外国語をどうやって身につけさせるか、という議論は、実に盛んだ。その一方で、第一言語の獲得のためにどうすべきか、なんて議論は、ほとんど聞かない。しかし、では、母語/第一言語は、放っておいてもいいほど、たやすく獲得できるものなのか。
そうそう、外国語を、ただずっと聞いていれば、赤ん坊が耳から聞いて言葉を覚えるように、外国語だって覚えられる、なんて話もあった。しかし、実際のところ、基本的な文法+発音が完成するのに、生まれてこの方ずーっと聞いてきた母語においてすら、約7年(6歳に到達するまで、として)という月日がかかっている。ここから、社会人として通用する言語活動(読み書きの、いわゆるリテラシーまで含めて)を行えるようになるまで、更に9年前後の月日を要するわけだ。(義務教育の終了を、一応の完成と見做した場合。)

と、上記の文章で「母語」と「第一言語」の区別が曖昧なのは、私の中で、それらの定義がまだしっかりと弁別されていないからなのだが、ここでは仮に、幼少期から意識せずに身につけてきたものを母語、身につけた過程を問わず、現時点でその人にとって最もうまく意思表現、思考が出来る言語を第一言語としておく。(あー、でも、そうなってくると、今度は母語と継承語の区別ができなくなってくるなぁ…)

実際のところ、例えば国際結婚家庭とか、両親は同一の言語を話していても、それが、その家庭が住んでいる社会の主流言語ではない、といったケースにおいては、単なる生活上の用を足す以上の、自分の情感までを含めた表現が可能な第一言語をどう習得させるか、あるいはどの言語を第一言語に設定するか、というのは、深刻な問題だと思う。

逆に、第一言語が確立されていれば、第二言語は第一言語を凌駕することはできないけれど、第一言語を利用して第二言語を獲得していくことが、ある程度は可能になる。例えば、第一言語であれば無意識に習得していく筈の構文の規則性を、「文法」として勉強することは可能だ。
前に、私が試みにフランス語だけでモノを考えようとしたらほとんどできなかった、という話を書いたけれど、そんな私でも、習い覚えた文法知識と辞書の力を借りて、フランスの大人社会で通用する文章を多少はでっち上げることが可能で、それは少なくともフランス語ネイティブの幼児にはできないことだろう。

・・・ってな話を「ペラペラですか?」と聞いてくる人に、短い時間で理解してもらおうなんてのは、はなっから無理な相談なんですけどねぇ。
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by mmemiya | 2008-08-18 22:39 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

「バイリンガルの科学」

既に絶版になった本らしいのですが、あちこちで言及されていて、一度は読んでみたかった本なので、古書で購入。

研究方法やデータ解釈の妥当性等については、その後、批判的な意見も出ているかとは思うのですが(子どものいわゆる「セミリンガル」状態は一時的なものだ、とかね)一読する価値はある本じゃないかな、というのが感想。

あと、「バイリンガル」の定義って、やっぱり曖昧というか難しいよね、と、再認識。丁寧な議論をしようと思うと、バイリンガルをいくつかレベル分けして定義してかからないといけないでしょうね。
おまけに、純粋に<聞き、話す>能力だけを問題にするのか、<読み、書く>まで問題にするのか、ということも考えなきゃならないし。

以前に、このブログで、私の知る限り、最もハイレベルの「バイリンガル」だと思える人に、私が「失礼だけど、あなた、思考は何語でするのですか」と尋ねたら、その人がしばらく考えたあと、「思考は言語より早いでしょ?」と答えた、という話を書きました。
ただ、私思うに、確かに、ぼんやりとした、言葉にならない思考というものが頭の中に渦巻いているとしても、そこを切り取って明確化する手段は、やはり言語のほかにありえないのではないか、と思うのですよね。もしかしたら、彼は、無意識のうちに、日本語をしゃべってる時は、その思考の明確化を日本語で、もう一方の言語をしゃべってる時はそっちの言語でやってるのかも。

実は、試みに、ちょっと、自分の頭の中から日本語を追い出して思考してみようとしたのですよ。

英語の場合、一応、時々単語には詰まるものの、頭の中でセンテンスを次々とつなげていくこと自体は出来ます。ま、細かい時制とか冠詞のミスとかは気にせずに、って話ですけどね。ただ、ものすごく表現の幅が狭い、っつーか、限定的というか、単調な文が続いていくだけなので、思考に全然、深みってモノが生まれませんね。
フランス語はもう、端から駄目。「今夜は何を食べようかなー」みたいな、そういう、ものすごく具象的なことなら、なんとか考えられる。それ以上は無理。うちの6歳児や4歳児の思考って、もしかして、これぐらいかもしれない。(いや、6歳児はもうちょっとハイレベルか。)
自分の言語能力の限界を把握するのにはいいかもです、頭ン中で、その言語だけで考えてみる、っていうの。考えてみるっていうか、独り言を言ってるみたいなものか。ただ、先に日本語で組み立てて、それを訳してちゃ駄目よ。
私の場合、英語は、日常生活上の実用的な内容程度なら、最低限、言いたいことを伝えることはできるかな、ぐらいのレベルかと自己判断。その表現がその場において適切かどうかとなってくると怪しいところはあるし、物事に対する自分の詳細な見解とか、感性レベルの話とかは困難。フランス語はもう、ホント、最低限の日常会話しかこなせない。(大学でパスカルのパンセなんかをフランス語で読まされた、なーんてのは、一体、どこへ消えてしまったんでしょうね?当時から、仏作文の授業や仏語購読の授業の点数は、そりゃひどいもんでしたが。)

さきほど書いた「バイリンガル」の人、仮にAさんとしましょう、Aさんは、B国人を父に、日本人を母に持ち、B国で生まれ育った人です。B国の大学院を卒業しているほか、日本の大学に留学経験があるそうですが、そう長い年数、日本にいたことはなかったはず。(お父さんが外交官だったので日本に数年いた、という生粋のB国人の女性が「私の方が長く日本にいたのに、Aの方が私より日本語が上手い、悔しい」って言ってたし。)
Aさんは、初対面の時こそ私にはかなり丁寧な日本語を使ってましたが、そのうち、比較的年も近い、という気安さからか、けっこうくだけた言葉遣いになり、また、お母さんに「◎◎は持ったの?」とか聞かれた時には「うるさいなー、分かってるよー!」みたいな、ホント、そこらにいる日本の若者みたいな口調でしゃべってました。
しかし、仕事で通訳となれば、相当、非日常的な語彙も使いこなしてましたし(これを試金石として…とか、すらすらしゃべってた)、敬語もちゃんとしてたと思う。B国の国家元首と天皇皇后両陛下が会談した時、きっと、彼が通訳だよなー、と思ってたところ、やはり、その会談を報じた週刊誌の写真の片隅に、彼の姿がありました。私、B国語はさっぱりなので、彼のB国語がどんなもんかは知りようがないのですが、常識的に考えて、B国語のレベルが日本語のレベルより低いとは考えにくい。
B国には、在住日本人もそう多くはないはずで、一体、お母様が彼にどのように日本語教育をしたのか、というのは、本当に聞けるものなら聞いてみたい。
で、まぁ、彼の言語と思考に対する返答は上述の通りなわけですが、やっぱり、言語抜きで思考をちゃんと組み立てられる、ってのは、どうにも考えにくい。

ところで、話は変わるのですが、英語の得意な子どもを育てたい、って言うんで、両親とも日本人で、日本に住んでいるんだけど、子どもに英語で話しかけて育児をしてる、って人が、インターネットを見てると、少なからずいるんですね。
しかも、その親御さんが、みんながみんな、英語が得意か、というと、必ずしもそうでない人も「せめて子どもには英語ができるようになって欲しい」って気持ちで英語で語りかけたりしているんだそうで。
自分の心の細かい機微を英語で表現することなんて、とてもできない私には、とてもそんなことやれないなぁ。そりゃ、定型文(静かにしなさい!とか、ご飯よ!とか)の英語だけ、どっかで仕入れることは可能なんでしょうが、定型文しゃべってるだけで子育てが出来るなら誰も苦労しない。日常が定型文だけで過ぎていくなら、きっとそのうち、優秀なロボットが、全面的に育児を代行してくれるようになるでしょうが、恐らく、どんな優秀なロボットができても、そんな代行、無理でしょう。あと、自分自身、語感が不確かなものなんて、子どもにも間違った語感を教えそうで、とても恐ろしくて使えないなぁ。
例えば今日の6歳児との会話。「月に行ってジャンプすると、6倍も高く飛べるんだって!保育園にある本に書いてあったよ」「そうだねぇ。そういえば昨日、あんた、月の大きさは地球と比べてどれぐらいだ、って言ってたけど、重力が6分の1なら大きさも6分の1なのかなぁ。(以下、ほぼ私のひとりごと)いや、でも、組成が全然違うんだから質量と大きさは比例しないか・・・」「重力って何?」「えーっと…」 心の機微も語感もここには関係ないが、こんなの英語でやってられっか!

以前、ハンガリーに行ったとき、ちょっと仕事を手伝ってくれた大学生に「なぜあなたは英語の教師にならなかったのか?」と聞かれたことがあります。自分がなんと答えたのか、もう思い出せないんですが、その後、彼は「でも、自分の子どもには英語を教えるでしょう?」と言いました。彼の英語もけっこう拙かったし、私も、自分の考えを充分説明できるだけの英語力は持ち合わせていないしで、それには、Maybe、と返答して誤魔化してしまったのですが、結婚もしてない当時から、自分で子どもに英語教えるなんて、絶対無理だよなー、と思ってました。
いずれ、中学なり高校なりで子どもが英語を勉強するようになり、英文和訳やら英作文が間違ってれば、それを指摘して直すことはできると思うのですが(そういう仕事はアルバイトだけどやってたしね)それと、英語そのものを教える、ってことは、まーったく別の次元に属するんですよねー。

とまぁ、とりとめがないですが、色々なことを考えさせてくれた本でありました。
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by mmemiya | 2008-08-14 00:07 | 読んだ本 | Trackback | Comments(7)

書き留めて忘れたことども

過ぎ去ったことってのは、書き留めておかないと、本当にすぐ、忘れてしまうものですね。
いや、メモしておいたって忘れるんですが。

パリの記憶、レストラン編は怒涛の勢いで書き上げましたが、その後の旅行の記憶編に、なかなか手がつけられないのは、ゆっくり時間をかけて地図とか見ないと、どこへ行ったのかすら、既に忘却の彼方だから、ですね。

この間書いた、ブルゴーニュ編以外、旅のメモなんてのは、全くと言っていいほど残っていない。ただ、同じメモ帳で、ロンドンへ行った時の走り書きがありました。

そもそも、友人達が、ロンドン・パリ格安ツアー(宿泊と飛行機、ユーロスターだけついていて、現地では全くフリー、もちろん添乗員も食事も付いてない)というのでパリにやってくる、というのがこの旅行の発端でした。ところが、旅行日近くなって、急に、私に出張が入ってしまい、彼らがパリにいる間、私はスペインにいることに。あまりの申し訳なさに、出張前に休みを取り、ロンドンに飛んで一泊だけ友人達と行動を共にして、次の日の午後、私はロンドンからバルセロナに飛ぶ、ということにあいなったわけです。

・・・という顛末と、なんか、タワーブリッジとか行ったよなぁ、ってことはかすかに覚えているものの、この、走り書きのメモに残っていること、またしても、まーったくと言っていいほど記憶にない。

どうも、ウォータールーから、タクシーで、友人達の泊まっているホテルに向かったようですね。

あ、パリ在住中に、かなりの回数、ロンドンには行きましたが(パリに来た友人と日帰り、なんてのも含む)飛行機で移動したことはないです。空港までの所要時間とか諸々を考えると、鉄道でも、結局、かかる時間、大きくは変わらないと思うし、ヒースローの入国審査、イヤだし(笑)。
ユーロスターでの入国の方が、比較的審査は楽なんじゃないか、と思うのですが、パスポートを見返すと、見事に、イギリスへの入国スタンプって、執拗なほど同じページに押されまくってますね。入国回数多いと、要注意人物になるんでしょうか(笑)。一度、うっかり、入国の目的を「観光じゃない」と言ってしまい(いや、事実そうだったんですが)「もっと詳しく説明しろ」と、入国にてこずったことが、ウォータールーでもありましたっけ。結局は、私のフランス滞在許可証を見て「なんだ、フランス在住者か、それならいい」ってことになったのですが。

で、駅からタクシーに乗って、<タクシーの運転手さんと発音練習をした>と、メモにある。なんか、発音直されたんでしょうな。で、<ホテル周辺のレストランなども教えてもらう>と。ホテルにチェックインし、みんなと合流して、歩いて近くのレストランに行ったような記憶あり。トータルとしてはフランス語より英語の方がまだしも私、分かる筈なのですが、レストランのメニューだけは、場数の問題で、フランスのレストランのメニューは、そんなに凝った書き方じゃなければおおむね分かりますが、英語のメニューはよく分からん。このときもどーだったんだか。
で、<帰り、道に5時間以上迷っていたという日本人女性に会う。レストランのおじさんに、その人のホテルを探すのを手伝ってもらう>とあるが、これも、まーったく記憶にない。5時間迷っていた・・・・異国で大変なめにあったもんですねぇ。慣れない所では、ホテルカードを携帯した方がいいよな、やっぱ。

<朝食会場で通訳を頼まれる>というメモが続く。これまた、全く記憶がないが、わざわざメモに残したってのは、なんだったんだろうな。見知らぬ人にちょこっと便利に使われる、と言っちゃ言葉は悪いけど、そういうのは、異国ではけっこうちょくちょくあることで、わざわざメモに残したってのは、よっぽどのことでもあったのかしらん。

<ヒースローエクスプレスの駅は遠い>という一文で、このメモもまた、唐突に終わる。ヒースローエクスプレス使ったのは、多分、このときが初めてなんだな。

ここから読み取れる、今後の自分への教訓が二つ。

1.どこかへ出かけたら、なるべく、覚書を残しましょう。でないと、どこへ行ったか、何をやったか、何があったか、すっかり忘れてしまうから。

2.走り書きのメモではなく、なるべく、詳しい記録を残しましょう。断片的な記録からは、何の記憶も甦りませんから。
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by mmemiya | 2008-08-12 23:13 | Voyage | Trackback | Comments(2)

じんましんその後

丸一日たっても、じんましんはひかない。というか、ほとんど変わっていない。2日目に入っても猛烈に痒い。
月曜初日は、市販のかゆみ止めを塗っていたのですが、火曜の仕事帰り、市販のじんましん用飲み薬を購入。早速飲んでも、翌朝もまだ、蕁麻疹の様子はあんまり変わらない。
・・・これって、ホントに、ジンマシンだろうか…?
という疑いがムクムクともたげてきて、ネット検索などすると、出方が、なんとなく、帯状疱疹のパターンと同じ。もっとも、水泡ではないようだし(先端部分が小さなカサブタになったりしていたのは気になったが)痛みはまったくないんだけど。しかし、とにかく、痒い。

その水曜の夜は、同じ職場の人のお父様が亡くなってお通夜だったので、医者に行く暇がなかったが、木曜、家族旅行に出かけるのを少し遅らせ、朝一で医者の予約を取って、皮膚科に行きました。
心の中では、軽い帯状疱疹なのか…?と思いながら問診票を書いて、しばらくすると、看護婦さんが「今日はどうされましたか~」とやってきたので、じんましん?を見せて、症状を説明。すると「庭で草取りなどされませんでしたか?」と、意外な質問が。
「・・・草取りはしてませんが、前日、庭には出てますね…」

やがて、診察室内に呼ばれ、「ここと、ここと、これなんです」と、左腕、左肩から脇腹、左太ももを見せると、医師はあっさり「毛虫ですね」。け、毛虫ですか??

まるでジンマシンのように、こういう風に赤い発疹がばーっと出るんですよ~、と、リーフレットを見せてくれる。でも、長袖長ズボンだったんですが、と言ったが、とてもとても小さな針なので、ちょっとした隙間から入り込みます、とのこと。確かにねぇ、日曜は、毛虫退治をしたわけです。でも、今回もらったリーフレットにも、そのイラガは、刺されると痛いけど、すぐに収まって後日、腫れるようなことはない、って、書いてあるんだけどなぁ。イラガの他にチャドクガもいる、ってこと??

と、なんとなく、釈然とはしないものの、その場で抗アレルギー剤を注射され、飲み薬と塗り薬をもらって、翌日にはほとんど、痒みも発疹も収まってきました。今はもう、全く痒みはありませんが、まだ、発疹のあとが茶色いシミ状になって残ってます。盛り上がりはないけど。

毛虫かぁ…。参った参った。
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by mmemiya | 2008-08-10 15:19 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

かゆい…

前にもこのブログに「じんましん」って書いたような…と思ったら、2007年3月のことでした。

はい、今朝から、また、原因不明のじんましんです。

左腕に点在、左肩からわき腹にかけてものすごく多数、左太もも、なぜか5センチ四方ぐらいの範囲内にのみボコボコと。全部左半身なのは、なんか、意味あるんでしょうか。

痒いです~。寝てかきむしらないようにしないと…って、寝るとやっちゃうんだよなぁ、きっと。市販薬(かゆみ止め)塗ってみたけど、あんまりきいてない、気がする。

こんなわけで、本日も、みょうが甘酢漬けはお預け。体があったまるとかゆみが強くなるので、子どものお風呂も、夫にお願い。いやー、今日も夫が帰宅するのは子どもが寝た後かなぁ、と思っていたのですが、ちょうど、入浴させる頃に帰宅してくれたので。疲れてるのにいきなり子供のお風呂の世話をさせられた夫には申し訳なかったなり。あー、早く消えてくれないかなぁ…。
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by mmemiya | 2008-08-04 23:24 | 日々雑感 | Trackback | Comments(3)