La Lune Lunatique

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彼女の名前教えないでね

子どもの個人懇談で3時間早退するも、前の人の懇談が押してて、私の時間は結局、5分とちょっと。
まぁ、今のところそんなに大きな問題はない、というように、前向きに解釈しましょうか。忘れ物多すぎるというのはやっぱり言われたけど…ハハハ。教科書とかはチェックしてるつもりなんだけど、ノート忘れを何回か見落としてたようで。来月こそは、忘れ物減らさねば。(親の私が未だに忘れ物、失くし物だらけなんでねぇ…。まだまだ息子のかばんチェックは欠かせません。)

で、懇談後、子ども二人を実家に送り届けて習字の間、明日の娘の弁当材料買い出し(遠足なので)と、本屋へ足延ばして、「閉経の逆襲」見つけてきました。さっきから読み始めたところ。

「我々に求められているのは『家族の立て直し』ではなく『家族観の解体』ではないのか」という言葉が出てきて、この辺が、昨日私が思っていたことへの中村うさぎ流回答?みたいなことになるんだろうけど、血がつながってなくてもいいし、父親役や母親役が複数いてもいいし・・・という家族のあり方は、理屈の上では私も、そういう家族があってもいいと思うし、「『自分がじゅうぶんに受け入れられ、必要とされている』という感覚と、『自分はその愛に応える責任がある』という道理」さえ伝わればいいのだ、大事なのは家族の形態じゃない、中味だというのは誠に正論だろうと思う。
・・・なんだけど、まだまだ横並び意識の強いこの国で、異質なものは異質であることだけを理由に排除されがちなこの国で、家族の形態がそこまで変わり、それも家族のかたちのひとつ、と受け入れられるまでには、けっこう長く苦しい道が待ち受けているような気も、しないではない。


・・・あとね、子どもに愛情を注ぐ人がいれば、その人と子どもの血がつながっていなかろうとなんだろうといいじゃん、とは私も本当に思うのだけれど、子どもにとって、自分を愛してくれるその庇護者が、家庭以外のところに別の愛情の注ぎ先を持っている、と知ることって、やっぱ、子どもであればきついんじゃないかなー、と思うのだけれど、どうなんだろう。子どものころから「そういうもの」という環境で育てば、気にならないものなんだろうか?


父が死んで、母が携帯をみたら、よそのおねーちゃん(?)とのメールがいくつか残っていたそうな。さすがに私もこの年だし、父の年も年なんで、「あの年で(70過ぎだぜ)携帯でメール打ってただけでもすごいじゃん」と笑って済ませられるけど(まぁ、メール程度で深刻な話じゃない、ってのも分かってるしね)、これが思春期だったら嫌だっただろうなーと思うんだよね。
私の母は車の運転が出来ない人で、でも、ここらは、どこへ集まるにも車がないと始まらない田舎。で、母はPTAだの(実は私が中学時代のPTA役員仲間と、未だに年に1度は飲んでいる・・・PTAって凄すぎる・・・)、ボランティア的な地域のお世話役だの色々引き受けてる人で(こっちは内閣総理大臣表彰まで受けている)、で、よく、よその男性の車に乗せてもらって集まりに行ったり、送ってもらってきたりしてたんだけど、実は、中学時代の私、そんな風景ですら、かなり嫌でした。今から思うと笑っちゃいますけどね。

・・・そんなことをつらつら考えるに、やはり、現状のわが家庭においては、夫に言っておきたいのは「長い人生、どこかからふと恋心が降ってくることもあろうが、できれば『思う』だけにしておいてね。もしどうしても行動に移すんであれば、なるべく短い間で終わらせてね。私になるべく分からないようにやってね。そんでもって子どもには絶対分からないようにやってね」だなー、などと結論付けてみる私。
浮気相手を見るなんてヤダよなー。それこそ、名前だって知りたくないわ。ホント、ユーミンの歌うとおりである。

なんてことを夫に言ってみたのだが「うーん、嘘つくのも面倒だしなー」と気のない返事。どうせそんなこと、自分には無縁、と思ってるのがありありと分かる。もー少し、人間、何があるか分からん、と、危機感を持ってくれてもいいんだけど。
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by mmemiya | 2010-10-28 22:17 | 日々雑感 | Trackback | Comments(3)

しかしやっぱり「子育て」がネックでは…

ここんとこ、また、中村うさぎのエッセイを、何冊か読んでいる。
雑誌連載をまとめたみたいな軽い奴中心なんだけど、そんでも、相変わらず、色々考えさせられます。

この記事の前の記事で、化粧だの下着だののことを書いたけど、こんな(って私を見たことない人に「こんな」じゃ伝わらないかもしれないが)身なりに構わない私でさえ、それでもやっぱり、「装う」ってのは嫌いじゃありません。むしろ快楽の方に近いでしょう。(でも「面倒」の方が更に強力なのが私…。)

「美人とは何か?」なんてのを読んでると、まぁ、うさぎさんに100%共感するわけじゃないけど、オンナが「美しくありたい」生き物であることは同意します。そしてそれは、彼女も言うとおり、「オトコに受けたいから」ってもんではないんだな。オトコ受けするファッションとか体型とかは、オンナのこうありたいセルフイメージ上の体型とかファッションとは違う、と思うし。
なんで女は装うのか?っつったら、「そりゃ、いい伴侶をGETするための生き物としての戦略」みたいな回答をする人もいるような気がするけど、どうもそうじゃないんじゃないか、という気がいたします。ではなぜ、女は飾りたい生き物なのでしょうね。(うちの娘を見てても、ホント不思議だけど、好きだよなぁ、飾り立てるの。)ちょびっと考えただけで分かるようなことではないのだけど、興味深い話ではある。「一定以上の年齢のオトコは、なぜああも自分の身なりに構わないのか」とうさぎさんは問うていますが、それとこれとは関係があるのかないのか。

もう一つ、何年か前に、私、このブログで「恋愛と結婚とセックスってものは、もーちょっと分離できんのか」みたいなことを何回か書いてたのですが、中村うさぎって、まさに、結婚と恋愛は全然別、を、実践してる人なのですよね。旦那さん、同性愛者だし。(外国籍の人でもあって、もともと、彼の日本居住のために、書類上だけ結婚した、というのが始まりだそうで。)まぁ、彼女にとって、セックスは恋愛と切り離せないものらしいですが。

「『イタい女』の作られ方」の中で、彼女は「『愛』と『恋』とは違うでしょ!」と書いている。彼女の書くとおり、結婚の基礎には「恋」などという長続きしないものを置くのではなく、「愛」を置くべきだろう。それなのに、恋愛(ってのはこの場合、イコール「恋」ね)こそが至上の価値あるもの、のように思い込まされ、その完成形が結婚みたいに吹き込まれた結果、結婚は返って不安定なものに成り果てているように思える。
結婚してようがなんだろうが、恋する感情なんて、突如降って来ても不思議はないだろうし、昔なら、結婚すれば自分でもある程度、もう恋なんて縁のナイもの、と諦めもついただろうが、イマドキは、世間様が、「いくつになっても『女』を降りるな」とあの手この手で煽ってくるのだ。この場合の『女』とは、恋愛市場で値が付く、恋愛対象として価値のある女、ってことだもの、要するに。そりゃー結婚生活も、不安定になって当然よ。
おまけに、幼少の頃から、女の価値は恋されること、恋されないのはもはや女ではない、と刷り込まれてくりゃ、結婚・出産を機に、あんたは女から降りなさい、と言われれば、そりゃアイデンティティの危機かもしれない。

この本の中でなく、ネット上のインタビューだったと思うが、中村うさぎは、自分達夫婦のあり方を、家族愛はあるし、恋はそれぞれお互いに家庭の外でするし、ある種の理想形、みたいに語っていたように思う。

まぁそりゃ、理想の形の一つではあるな。「イタい女の…」にも、アメリカ人は何故、あんなにLOVE至上主義なのか、などと書いてあったが、恋も愛もLOVEで、しかもそれが至上の価値、となりゃ、生真面目であればあるほど、恋が破綻するたびに離婚して、恋するたびに結婚しなきゃならん。そんな疲れること、御免蒙りたい。

で、恋と愛の分離した夫婦は、理想形の一つではあるのだろうが、やっぱりひっかかるのが、「そこに子どもがいたらどうなるのか」ってことなんだよなー。子どもの価値観からすると、「お父さんはお母さんを大切に思ってるんだけど、お母さんじゃない恋人がいる」とか、「お母さんはお父さんが好きだけど、別にもっと浮き浮きする相手がいる」とか、相当、嫌なもんじゃないかと思うのよ(特に思春期は)。子どものいる家族も維持したいけど、恋は恋で楽しみたい、なんてのは、やっぱり絵空事に近いのではなかろうか。(黙ってやっとけ、っていうかやってる人はいっぱいいるんだろうが。)

まー、やっぱり、「所詮恋なんて幻想よ」と、二次元(実在の韓流スターだろうとなんだろうと、自分と現実に交わらない存在なんて二次元と一緒よ)の恋に現を抜かすぐらいで生きていけるのが、きっと一番健全・・・なんだろうなぁ。
それにしても、中村うさぎは、出産願望を一度も持ったことがないそうだが、彼女が閉経を妊娠と勘違いした時、考えた子育て計画というのにはちょっと興味がある。「ババア・ウォーズ2 閉経の逆襲」、この間行った本屋になかったんだよなー。残念。
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by mmemiya | 2010-10-26 22:55 | 子育て、子育ち | Trackback | Comments(0)

オンナ39歳、それってどうよ。

最近、久々に化粧品を買った。
きっかけは、父の通夜の時、母と妹が、BBクリームという奴を使っているのを見たから、である。

買い物に行っても化粧品売り場に近づくことはなく、おまけにテレビも全く見ない私は、そんなものの存在すら知らなかった。ただ漠然と、「さすがにこの年になって全くのノーメイクもきついかなー」などと思うこともあり、かといってファンデきっちりとか、今さら面倒よねー(第一、私の朝の時間は、まったく化粧の時間というものが不要という前提で組み立てられている)とか思っていたが、ヨノナカ、面倒くさがりは私だけじゃないってことね(違うか)。

こんな私でも、19歳頃から25歳頃までは、一応、アイシャドウからアイライナーからチークに至るまで、一通りのものは持ってて、いちおーフルメイクをしていたんである。(もっとも、手先が器用ではないのでアイライナーひくのは苦手だった。)
それが、25歳の時、ふと基礎化粧品を変えてみたら、突然、顔が真っ赤に腫れあがり、皮膚科行って、薬でテラテラ光る顔で(ついでに、前髪が皮膚を刺激するというので、カチューシャで前髪あげて)仕事に行く羽目になってしまった。あわててそれまで使っていた化粧品に戻しても、もはやあとのまつり。

皮膚科では、根気よくテストを繰り返して、使える化粧品を探すことも出来る、と言われたが、面倒くさくなって、以来、基本的に化粧はやめた。
39になるこの年まで、眉ペンシルと口紅とリップクリーム、冬用の保湿目的のクリーム、あとは日焼け止め以外の化粧品類を、ほとんど買ったことがない。フランスにいた間は、いちばん気楽だった。(化粧しないから、あんまり日本人と思われない、という弊害?はあったかも。)なんとなれば、フランス人、ファンデなんてあんまり使わないから。ノーメイクの成人女性でも社会人失格扱いにならないし。
日本に戻って、さすがにポイントメイクぐらいはしないとまずいかー、と思い始めたのだが(口紅塗ってないと、顔色悪いと言われてしまうし・・・)もう長いこと、洗顔料すらほとんど使ったことがない。(日焼け止めを塗っていてそれは、間違っているかも…。)日焼け止めは、皮膚科でも目にするNOVのもの、あと、リップクリームは1本1,000円ぐらいするのだが、それを使っていれば、口紅とかは安物でも腫れ上がったりはしない。しかし、人間、低いほうに流れると、戻ってくるのは大変なんである。
前に、「いや、そろそろこのシミやばいかも・・・」と、ふと、美白化粧水なんてのを買ってみたら、数日使ったら肌が荒れてきたのが分かって中止。まぁ、黒くなったものを白くしようなんて、そもそも色んな刺激物が多そうだし、フツーのメーカーのそんなものを買った自分がアホなだけである。

しかし今回、とりあえず、ドクターシーラボのBBクリームという奴を使ってみて、今のところ、そう問題はないようなので(さすがに、久々に洗顔料と化粧水も揃えた。えらい出費だ。)、実は同じメーカーの美白モノにちょっと惹かれ始める私…懲りないなぁ。というか、もっと若い頃から、もっとシミを作らないように努力しろ、ってなもんであるが、この年になって今さらどうにかなるものではない。

最近、考えを改めたものがもう一つあって、それは「下着」、特にブラ、についてである。
これまた、きっかけはなんと父の葬儀で、着物着付けてもらうときに、服脱ごうとして「うっ・・・」という状況があったからなんである。
出産後、ワイヤー入りのブラがわずらわしい!と、それまでの下着を全然使わなくなった私(まぁ授乳期は当然と言えばそうですが)、ここ何年も、「ラクであればいい」みたいな感じで、ノンワイヤーのブラばかり。(つーか、もしかして、フランスにいたときから、これも始まってたのか?フランス女性、けっこう平気でノーブラだから・・・。)
着付けてもらうときにふと気づけば、私の着ていた下着は某しま○らのノンワイヤー(高校生かよ!みたいな)、かたや母親と来たら、レース使いのごーじゃすな?綺麗な下着を身につけておりました。この64歳に対してこの39歳・・・やっぱこれはまずいだろう、と、突然、下着購買欲に目覚める私。

こんな私が、かつては近くの下着専門店に顔を出すだけで「あー、○○さんこんにちはー!」と言われる常連で、サルート(ワコールの下着専門店用ブランド名。ややお高いが、デザイン性と、デザインにもよるけど少なくともHカップまでは揃う豊富なサイズ展開が特徴。)の新作が出るたびに何か買っていたに近いような日々があったなんて・・・嘘だろ、って感じなのだが、そんなわけで、久々にワイヤー入りブラをちゃんと買ったけど、あら、別に苦しくはないじゃん、みたいな。
ちょっと太ったかな~、と、アンダーを上げてみて、うっかりカップを下げなかったもので(注)、着けてみたらカップぶかぶか、などという間抜けなことをやったあげく、昔どおりのアンダーで、多分、カップサイズはこれかな、って奴を買ってみたら、トップの位置がものすごく上がってこりゃまたびっくり。「胸年齢が5歳若返る」とかなんとか歌っていたが、いやこれ、詐欺ではなかろうか。

注:たとえば、C75とD70とは、カップのサイズは共通です。デザインによってもフィット感は色々なので、同じ人が、このデザインはアンダーちょっと詰めてC75を買い、こっちのデザインはD70 にしておく、というのは普通に起こる。しかし、この式を左右に広げていくと、D70とE65は同じ、C75とB80は同じ、B80とA85は同じ、となって、最後にはA85=E65、AカップもEカップも、アンダー違えどカップは実は一緒なんだよ、という、すごい等式が出来上がるのであった。(←今、ネット検索してみたら、A90で始めると、等式はF65までたどり着いていた。そうか・・・A90・・・。)

更にそこまでいったら、いやー、やっぱ、下着は専門店でちゃんとフィッティングしてもらって買わないとねー、と、10年ぶりに専門店まで出かけてあれやこれや見てきてしまった。1万数千円するブラはさすがに美しい。買わんけど。でも、さすがにもう、サルートって年でもないよねー、と、ラゼ、という、これまた「胸元年齢マイナス5歳」とかいうやつを見てたんだけど、うう、ビミョーにおばさんくさい。おばさんだからしょーがないのか。あと、ショップにアンダーが75と80しかなくて、70はどこ?みたいな。
しかし、久々にサイズ測ってもらってフィッティングしてもらって下着見てくると、あれこれ買いたくなりますねー。昔とは可処分所得が違うのでやりませんが。
あー、あと、昔と違うのは、田舎の専門店より、ワコール直営オンラインショップの方が品揃えが良いこと。そんな買い方、昔はなかったもん。ネット見ている方が危険な誘惑が…。

ということで、ストレス解消も兼ねて?なんか色々消費してしまったこの頃なのでした。そんなことより、ホントは運動しなきゃ、ホントはね・・・。
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by mmemiya | 2010-10-22 06:47 | 日々雑感 | Trackback | Comments(4)

葬儀のこと

通夜・葬儀をした斎場の親族控え室は、風呂・トイレ付き、ダイニングテーブルと椅子6脚にキッチンあり、ソファーセットとテレビ、そんでもって和室(10畳はあった筈)という広さで、至れり尽くせり、でございました。

布団も一式いくらで借りられたのですが、叔母が「まだそんなに寒くないし、タオルケットとか持っていけばいいよ」と言ったので、布団は借りず、何枚か薄手の掛けるものを持っていってそれで横になりました。

とはいえ、風呂は男性陣2名が使ったのみだし、まぁキッチンでさすがに料理とかしたわけではないんだけど。(お茶なんかは、廊下に無料の給茶機があったので、そっちで入れてくる方が早かったし。)

朝になったので、近くのチェーン喫茶店まで交代で出かけてモーニングにしました。コーヒー頼むとトースト半分とゆで卵がついてくるだけで、え?これだけ?まぁモーニングに限った話じゃないけど、なんでこのチェーンて人気あるのかよく分からんよなぁ…とか思って戻ってきたのだけれど、叔母に言わせると、名古屋ではあれでも充分なレベルだ、とか。
え?そうなの?モーニングって名古屋が本場じゃないの?一宮あたりと名古屋じゃ違うの??わたしゃ少なくとも、サラダもヨーグルトも付かないなんて、しょぼいモーニング、とか思っちゃったんですが。
(注:モーニングと言うのは、全国的に知られるようになった風習とは思いますが、要は昼のコーヒー一杯と同じ値段で、朝はコーヒー以外に軽食がついてくる、というものです。)

あと、車で喫茶店まで出かけたら(小雨も降ってたし)、叔母に「田舎の人って、ホント歩かないねぇ」と呆れられた。ま、確かに。
車と言えば、うちの車より父の乗ってた車の方がたくさん荷物も乗るし、と、父の車をうちの夫が運転して斎場まで来ていたのだけれど(実際、帰りはかなりの荷物でした)、それを駐車場で見たのかどうなのか、通夜の時に来てくれた、ずっと世話になってる車屋さん(先代のおじさんはもう亡くなってしまったが、そもそも私が生まれるというので車を買うか、ということになってから40年近い付き合いなんである)が、帰りがけに妹にそっと「あれ、(任意保険が)本人限定だからね」と耳打ちしていったらしい。妹の車が限定かけてないので、うっかりしていましたよ。事故なくて良かった。

で、朝食のついでにコンビニで新聞でも買って…と思っていたが、考えてみりゃ、喫茶店いきゃ、新聞ぐらいありますわね。お悔やみ欄をチェックして、父の名が載っていることを確認し、とりあえず胸をなでおろす。
これが翌日掲載だったりすると、また「知らなかった」で後から弔問にいらっしゃる方も増えるだろうし…。

お悔やみ欄の効果もあってか、弔電がその後、一気に増えました。実は、前夜の段階で、ざっと弔電の順番を考えてた時に、市長とか議員とかをどうするか?という話があったんですね。
父は会社を定年退職した後、ISO9000シリーズを取得しようとしている企業に助言してまわる・・・みたいな仕事をしていて(一応、形の上では自営業)最後の方にお世話になってた会社2社からは、通夜の日のうちに弔電が届いていました。(元の勤め先の下請け企業でもあるので、そっちの方から情報が回ったのでしょう)「市長なんて来る訳じゃないんだから順番なんて後でいいじゃん!」と、そっちの2社の弔電を先にしよう、と、最初は考えていたんですよ。
ところが、その後、けっこう弔電が増えたので(会社員時代の勤め先からも来た。退職して10年以上経ってるけど・・・)、そうすると市長があんまり後ろではやっぱりなんなのか、ってことになって、結局、市長が先に来ることに。順番ってのはとにかく面倒なものです。まぁ、ベテランの葬儀社の人が付いてるのでなんとかなる、って感じでしたが。

母と私は葬儀の日は和服だったのですが、夏の単の喪服、母は嫁いだ時にあつらえたものの、一度も袖を通さないまま、という状態でした。最初、母から着付けをしてもらってたのですが(一軒おいたお隣さんで、この斎場の着付けやってる小母さんに)、小母さんが「○ちゃん(私)、ちょっと来なさい」と言うので何事かと思ったら、「お母さん、昔は細かったもんで、これきついわ。○ちゃんが着なさい」と、私が母の喪服を着て、母は私がレンタルした喪服を着ることに・・・。和服って、体型が変わっても大丈夫なものだと勝手に思ってたのですが、やはり違うんですねぇ。

そうこうするうちに昼が近づき、親族は食事をすることになり、、信州の親族も再びホテルから到着。義父母と義姉も、うちの子ども達を連れてきてくれたのですが、娘が私を見るなり「お母さんじゃない!」と号泣。母の和服姿がそんなにいかんかったのか。
うちの夫やら従弟やらが代わる代わる機嫌をとるも、なかなかぐずりは収まりませんでした。

13時から葬儀。曹洞宗は、いや、母方のじいちゃんばあちゃんは臨済宗だったけどそっちもか、つまり禅宗の葬式は、鳴り物が賑やかです。お坊さんの衣装も人目を惹くし。(この、音鳴らす人を何人頼むか、とかも、まぁぶっちゃけ、謝礼がいくらかってことにつながっちゃうので悩ましい問題ではあります。戒名については、父の兄達も「○○信士」でしたから・・・で済んだんだけどね。)
お坊さんが、かなりお若い方でしたが(二七日のとき、うちの子と同じ年のお子さんがいると分かった)、非常に通る声でお経を読み上げられ、背も高く、なかなか目立つ方で、この間、母が父の死後、初めてコーラスサークルの練習に行ったら、みんな「あのお坊さんはどこのお寺の人だ」と聞いてきたらしい。

葬儀終わって、火葬場へ移動するのですが、火葬場で待つ時間をどうするのか(あちらで休憩所を借りるのか)も悩んだ挙句、いったん火葬が始まった後、母と妹を残して斎場へ戻ることに。
ここで、受付をしてくださった近所の皆さんに夫と私でお礼のご挨拶をして、初七日法要の食事と果物と花を持って帰ってもらって、代わりに香典を預かって。
・・・このまま香典袋に入れて箱に入れた状態でロッカーに入れておくのはどうよ、と夫が言うので、それから必死に香典袋開けて中味チェックして一つにまとめて。二人で必死こいてそんな作業をしてると、あっという間にまた火葬場へ行く時間。

・・・長患いだったわけでもなく、なにしろ6月にはまだゴルフにも行ってた位だったせいもあるのか、ものすごくしっかり、骨が残ってました。で、骨上げをしたわけですが、信州の方とうちの方とでは、お骨の扱いが違うもので、信州の親戚が、けっこうショックを受けてました。

後でネットで調べると、関東は全拾骨、関西は部分拾骨、と書いてあったのですが、それでいくとここは関西圏になって、信州は関東圏ということなんですね。骨壷の大きさが、全然違うんです。で、関東はぜーんぶお骨拾って、最後は灰まで骨壷に入れますけど(信州のおばあちゃんの葬式では確かにそうだった。ただ、信州は、先に火葬にしてから後で葬式をやる「骨葬」という方式なので、これはまたけっこう、珍しい風習かと思う)、当地では、一部の骨しか骨壷に入れないんですよ。(体全体を、頭の方から足の先までまんべんなくちょっとずつ入れていく、というやり方)
で、けっこうたくさんの骨が残ったまま、火葬場の人に「残りのお骨は○○市で供養させていただいてよろしいでしょうか」と聞かれる。よろしいも何も、自前で別の骨壷を用意してこない限り、とても持ち帰ることはできません。
どうして関東と関西で、そういう違いが出来たのかは知りませんが(第一、この辺は、母が子どものころはまだ土葬だったんだ)、葬儀一つをとっても、色々違うものです。
うちの近辺じゃ、それなりに信心深い人は、お骨は一部だけ拾骨し、さらにその一部を宗派の本山に納めるんですけど(うちの父ちゃんは生前、曹洞宗の本山を嫌っていたのでやんないと思う)、関東の人はそういうこともしないんでしょうかねぇ。

火葬場から戻って、初七日法要のお経を上げていただき、親族で食事をして、一応、一通りのことは終わりました。親族を送り出して、色々なものを忘れないよう片付けて積み込んで、斎場の人にお礼を言って実家へ戻って。で、受付を手伝ってくださったりした近所の皆さんに、母と妹と私でお礼の挨拶まわりして。

とりあえず、明日は午前中はみんな休もう、色々取り掛かるのは昼からだ、と約束して帰宅。ま、とはいえ、息子は次の日から学校行くので、寝て過ごす訳にはいかんなぁと思いながら。
結局、早く寝ようと言いつつ、夫と色々話し込んじゃったりしたのだけれどね。

特に父の最期の頃については、死のあり方とか、医療のあり方とかについて、色々と考えさせられることが多かったのですが、そのあたりのことは、またおいおい、書いていこうかと思います。
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by mmemiya | 2010-10-16 23:03 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

それにつけても戸籍は面倒

木曜日、子ども達が実家でお習字だったので(母は運転できないので、バスで実家へ行くことになった子ども達。)実家へ行ったら、母いわく「昨日、A市役所(父の本籍地)から電話がかかってきて、明日、戸籍関係を発行できるって言ってた」とのこと。

死亡とか出生とかの届け出を受け付けたところから、本籍地への連絡って、どういう風にやるものなのか想像がつかないのですが、まぁとにかく、時間のかかるものですよね。
今、自分の戸籍謄本(正確に言えば「戸籍全部事項証明書」)が手元にあるのですが、私の場合、出生の届け出が1月12日、当時の本籍地(現在、私の両親の戸籍がある長野県A市)にそれが届いた日が1月21日、となっています。
あれー、でも、夫の出生届1月31日、「送付を受けた日」が2月8日になってるなー。夫のこの時の本籍地って、出生地と同じかと思ってたけど違うのかな。
うちの子供たちは、本籍地の隣の市(当時の住所地)に出生届を出していますが、上の子が3日後、下の子が5日後に送付を受けた、と書いてあります。

まぁ、そんなことは瑣末なことなのですが、戸籍制度って、やっぱどうにかならんもんですかねー。戸籍の家族単位のあり方とか、そういうことについても、意見は皆さん、色々あろうかと思うのですが、今回、とにかく思ったのは、「なんとかもっとシンプルな管理制度にしてくれよ」ってことなのです。

自分と全く無関係な場所においてもいい「本籍地」というものに、今さらどれだけの意味があるのか全然分からないし、個々の市町村が戸籍を管理するよりは、どっかに日本国民全員について記録する役所を一つつくって、各市町村からオンラインでデータやり取りする方がよっぽど便利だと思う。でもって、一人の人間が生まれてから死ぬまで、一本で一元管理してくれないものか。

こういう記録を紙で処理するしかなかった時代には、今までみたいな戸籍制度でもしょーがなかったかなー、と思うのですが、とにかく、一人の人間について、生まれてから死ぬまで、さっと一目で分かる記録がないって、不便でしょうがない。
平成6年の法務省令によって、各市町村は順次、戸籍を電算化しました。これによって何が起こったか、といえば、電算化される前の離婚とかは、電算化後の戸籍に引き継がれなかったため、「生まれてから死ぬまでの全ての戸籍を用意してください」と言われたら、現行の戸籍(電算化後は「戸籍謄本」と言わず「戸籍全部事項証明書」と言います)の他に、電算化前の戸籍も取らないといけないわけです。

そもそも、相続登記とか、一部金融機関がなぜ「生まれてから死ぬまでの戸籍」を要求するかといえば、「本当に相続人はこれだけなのか?隠し子とかいないんだろうな?」ってことを確認するためでしょ?だから、当然、現時点での情報だけでなく、電算化前の「もう現状とは違うから載せないね」ってデータまで必要になるわけですよ。

法令の変更によって改製される前の戸籍を「改製原戸籍」と呼びますが、平成になってからの電算化によって生まれた「改製原戸籍」の他にも、戦後、家制度が大きく変わったときに、全国的に戸籍が書き換えられ、それ以前の戸籍はやはり「改製原戸籍」と呼ばれるものとなりました。こちらは「昭和の改製原戸籍」と呼ばれることも多いようです。

平成6年の法務省令によって・・・と書きましたが、実際に各市町村が戸籍を電算化したのはだいぶ後です。私の戸籍は平成14年に改製されてます。父の戸籍は平成18年に改製されてるそうです。
昭和の方も、家制度が変わって、戸主とかいう制度がなくなって、身分制度がなくなって…というのは昭和22年のことなのですが、実際に各市町村の戸籍が改製されたのは、大体昭和34年頃・・・と思ってましたが(というか、自分が見たことのある改製原戸籍は昭和34年ごろが多かったような)昭和33年から40年頃の間に行われていたそうです。

そろそろ、父の戸籍が届くと思うのですが、本籍地A市役所に事前に電話した時には、A市役所にある父の戸籍は三つだと言われました。
「現行の戸籍」「平成の改製原戸籍」そして「独身時代の戸籍」だそうです。で、生まれたときの本籍地は、その市ではない、と。

父、昭和13年の生まれです。当然、昭和の改製原戸籍がどっかにある筈です。結婚は昭和44年かな?私が引っかかってるのは、例えばA市の昭和の戸籍改製が昭和34年だとしたら、昭和の改製原戸籍がA市にない=21歳の時点での本籍地はA市ではない、ってことになるからなのです。

法務局に「どうしても、生まれてからの戸籍が要りますかねぇ」と聞いたら「10歳ぐらいからのでいい」とは言われました。(要は、人間の生殖能力が何歳からあると思うかってことね)。でもなぁ、10歳時点で本籍地がA市だったら、絶対、昭和の改製原戸籍があって、A市から取り寄せる戸籍は計4つになる筈なんですよ。

あー、これは絶対、次は新潟に戸籍要求しないとね~。はああ・・・。(A市からの戸籍が届かないと、当然、従前の本籍地が分からないので、まだ次のアクションには移れません…。)

本籍だの戸籍だの、誰が考えたんだよー!きー!!と思っている人間は、きっと、日本中にいっぱいいるんでしょうねぇ・・・。
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by mmemiya | 2010-10-16 09:40 | 日々雑感 | Trackback | Comments(3)

遺影とか、連絡先とか。

子どもが小さい頃って、比較的、家族写真とか撮る機会が多い気がしますが(うちは子どもの写真、ホント撮らないんだけど…ははは)、子ども達もみんな大人になってくると、家族旅行なんてのもそんなに行かないし、写真を撮る機会もあまりなくなるような気がします。

祖父の葬儀の時、遺影の写真にずいぶん困ったのです。結局、なにかの旅行の際の、浴衣姿の写真を、首から下だけスーツにして使ったのですが、今ひとつ、いい写真じゃなかったんですよね。

祖母の時は、そんなことがあったので、亡くなった直後に、母や叔母達が「○○(私)の結婚式の時の写真がいいんじゃない?」(私と祖母が並んで撮った写真があった)と言っていたら、家に行ってみたら、枕もとの小さな引き出しの一番上に、葬儀社の会員カードと一緒に、祖母の顔写真が一枚、入っていました。
祖母が、晩年趣味にしていた俳句で、どこかの大会で賞をいただいた時の写真で、きちんとスーツを着た正面アップの写真。
祖母も、祖父の遺影の件が心残りだったのでしょう。

今回、父の写真も、危篤状態になってから、母が慌てて何があったか考えていたのですが、昔から、写真を撮るのは好きだったけど(かつては家の風呂場を暗室にして自分で現像していた。35年ぐらい前の叔父の結婚式の時、写真とって、当時は珍しかったと思われる写真入の結婚報告はがきを作ってあげたりしていた)、自分が被写体になるのは嫌いだった父で、あんまり、昔から写真がないんですな。

たまたま、2年前に同窓会で旅行した時の団体写真が何枚かありまして、集合写真だから小さいんだけど、なんとか無理言ってひきのばしてもらって、それを使いました。だから、遠目で見るときはともかく、近づいてよく見ると、かなりボケボケの写真なんだけど。

たまには、写真を撮る機会ってのも作っておかないといかんよなぁ、なんてことを思ったり。

また、今回は母が、父の友人は誰で、どこへ連絡すればいいか、ってことが概ね分かってたからまだ良かったのですが(それでも、定年後に始めたゴルフのお仲間は、後から聞いた、ということで、後日、お線香を上げにいらっしゃいました)母に万一のことがあったら、正直、私、誰に連絡すべきか、よく分からない。年賀状をひっくり返したり、ってことになるのでしょうか。実家の年賀状、どこにしまってあるかすら知らないけど。

死について考えることは「縁起でもない」と、忌避されがちですが、後々になって、残されたものが慌てないよう、考えておくべきことが色々あるのかもしれません。
今回、私も、大学時代の友人とか、遠くにいる人には、特に知らせなかったので(リアルの知人が若干見ている、ということを念頭において、ブログの記事だけはアップしたのですが)これから、喪中欠礼葉書でお知らせする相手がけっこういます。
親のことなので、まぁそれでもいいか、と思うのですが、自分自身に何かがあったときに、遠方の、滅多に会わない友人に伝わるか、っていうと、難しいよなぁ。
どうせ死んじゃった後なんで、別に、葬儀に来て欲しいわけではない、という感じもするけど、知らせて欲しい人ぐらい、まとめておかないといけないかなぁ、なんてことも、ちらっと考えてみたりします。
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by mmemiya | 2010-10-12 22:49 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

通夜・その後

通夜式、という奴は、うちの場合、葬儀場で、一定の時間の間にやったわけですが、通夜ってのは、本来、いつ弔問があってもいいわけですよね。
実際、通夜式の後からも、それに間に合わなかったという方がぽつぽついらっしゃいました。私たち夫婦は、母、私の妹、それから母の妹と共に、葬儀場に泊まりました。通夜の後、親族や遠方から来てくださった方(母の高校時代の同級生は、どういうわけか関東地方在住の人が多く、それでも6人も集まってくださいました)には、簡単な食事をしてもらって、あと、うちの子ども達は、義父母の家に、一緒に連れて帰ってもらって、そちらで一晩泊めてもらいました。

当地方の風習では、通夜には「お淋し見舞い」として、和菓子(主としてまんじゅう)を持っていくことがよくあります。昨今は、昼間は仕事等で無理だから、と、通夜だけにお見えになって、その場で香典を置いていかれる方も多いわけですが、通夜と葬儀の両方にいらっしゃる方は、通夜にお淋し見舞、葬儀に香典を持っていらっしゃるわけです。
こちら側は、通夜の参会者にはそのお礼の品、香典をお持ちの方には、香典返しをお渡しします。

ところで、父の出身地である信州では(長野県全域かどうかは知りませんが)、病気で亡くなった人の入院中、見舞に行けなかった人は、通夜の時に「お見舞」という封筒を持っていらっしゃるんですね。
今回も、父が亡くなる一週間ちょっと前に、父の亡長兄長男、父の姉とその息子娘、は、病院までお見舞に来てくれたのですが、お見舞には来れなかった父の亡次兄のところからは、「お見舞」と「香典」の両方をいただきました。
このお見舞って、紅白の熨斗袋に入ってるんですよ。葬式の時に紅白の袋を見ると、え?という感じがしますが、本当に、しきたりというのは地域によって大きく違うものですね。
逆に、供花とか果物の籠盛とかは、信州はこちらほど多くないのかな?うちのあたりでは、費用はたとえ喪主側が持つのであっても、それなりに花が両側に並ばないと…みたいなところがあって(で、生花は「一対」が全て基本です。)「孫一同」(って、うちの二人しかいないんだけど)とか、色々並ぶわけです。
うちの夫と私の名前でも、生花一対を出して、そんで、妹はと言えば、父や喪主である母と生計は一つなんで、よく考えると奇異な気もしますが、まぁこういうのは形式だから・・・と、「子供一同」ってのも出しましたよ。
これも、生花一対とか、籠盛とか、こっちで、出す人の名前と出す物の内容を一覧にして葬儀社に渡すんだけど「子供一同は枕花の方がいい」とか色々アドバイス貰って、けっこう書き換えました。
あと、数合わせで、叔父と叔母が別々の名前で違うものを出したら、花の大きさの関係で、叔父の名前は小さく、叔母の名前はすんごい大きく…となったり、ま、色んなことが起こるものですね。

こういう花の順番とか、焼香順とか、色々順番を決めなきゃいけないのがまたうっとおしいのですが、まぁ、花は当初は身内だけだったのでそう難しくはなく(その後、こちらからは連絡してなかったけど、新聞の「おくやみ」欄を見て、なのか、父が70になるまで時々お邪魔していた会社から花が届き、葬儀には飾らせていただきました)、焼香は、もう、喪主以外、誰も名前は読み上げず「お近くの方から・・・」にしてしまいました。考えるの面倒だもん。(ま、でも、座るときに大体、着席順は考えないといけないから、結局、順番ってのは全く考えないわけにはいかないんだけどね・・・)

新聞のお悔やみ、といえば、そこの欄に載ると、ダイレクトメールやらセールスやらがいっぱい来るそうで、掲載を希望するかどうか、葬儀社で聞かれましたが、まぁ、後から「知らなかった」と言われるのもなんなので、掲載してもらいました。実際、セールスはいっぱい来ますが、葬儀社のアドバイスとして「とりあえず、返礼品関係のセールスは『お香典は辞退しました』と言えばOK」と言われ、実際、それで帰ってくれます。仏壇屋はそれでは帰らないけど(笑)。

食事をしている間に、親族控え室のほうに父の柩が移動して、そこで夜を明かすわけですが、そんな時間になってからも、ぽつぽつ、弔問の方がお見えになりました。信州の親戚は、そのあたりで、こちらで手配したビジネスホテルへ移動。実家もうちも、とても人様を泊められるスペースとかないので…。
ホテルまで案内しなきゃいけないかと思っていたんだけど、「ナビがあるから大丈夫」と。便利な時代になったものですね。父の見舞もナビで来てくれたので、あんまり細かい場所説明もしなかったし。

10時半頃、関東在住の従弟(母の妹夫婦の一人息子)が、仕事終わってやってきて、従弟も親族控え室で夜明かし。まぁ、と言いつつ、仮眠は取るんですが。

最初のうちは、親族控え室に移動してからは、みんなで香典袋と弔問客名簿の突き合わせをやって、香典袋開けて中味確認して、足してって…。電卓を誰も持ってこなかったです。そこまで実務的なことには頭はまわらなかった(笑)。とはいえ、それぞれの香典袋に入ったままだと、とんでもなく嵩張りますから、そんなもの持って歩く訳にもいかないし。

あとは、みんなでなんとなく色んな話をしてましたが、時間が経つのがものすごくゆっくりで。
最初のうちは、父の話をあれこれしてたんだけど、そのうち、亡き祖母の話になったりして(母方の親戚ばっかりだったからね、その場にいるのが)。

うちの父の金遣いが派手なのは(やたら人に奢ったりとかが好き)知ってはいるつもりだったんだけど、叔母が、父と母が結婚する前に、どういうわけかデートについていって、「そうしたらお義兄さんが、ひょいと5千円くれたのが忘れられん。私の初任給が1万2千円だったんだよ?初任給の半分のお金をぽんとくれるって、なんだ!?と思って、あれはホント忘れられん」と、私たちの知らないエピソードを披露。ちなみにその金は、いつの間にか、祖母がちゃっかり半分は持っていったらしい。
まー、年金生活者になってからも、月の小遣いが8万円(タバコ代別。じゃあ、小遣ってなんのための金だ!)という父でしたので、大黒柱(だよね、年金生活者でも)が亡くなったというのに、母は「これから生活が楽になる」と言っております。どんな家だよ、それ。
定年後の第二の職場の飲み会とかでは、終わり頃になると若い人たちが寄ってきて、「二次会はどこへ連れて行ってくれますか」状態だったらしい。まぁとにかく、ええかっこしい、って人でしたなぁ・・・。
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by mmemiya | 2010-10-10 22:46 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

通夜までのこと

そういえば、父がなくなった日の夜、子ども達を寝かしつけた後、夫がしばらく、実家まで来てくれました。
ちょっと打ち合わせとかして、夫は先に家に戻り、私はもう少し、色々なことを話したりしてから、実家を後にしました。

で、このブログに記事アップして、寝なきゃ…と思いながらも、実際はやっぱり、ほとんど眠れなかったですねぇ。そんでも、3時間ぐらいは眠ったと思うのですが、実家の母と妹は、ほとんど一睡もできなかったようです。

翌朝の月曜日は、上の子は運動会の代休日で休みだったんです。で、一日、学童保育の予定だったのですが、義姉が預かるといってくれたこともあり、朝、起こして、おじいちゃんが死んだことを告げて、8時過ぎには夫の実家に送り届けました。
やはり、息子は予想通り泣いちゃいました。「生きている間にもう一回会いたかった」と言って。娘は「実感がわかないからCちゃんは涙が出ない」と言ってましたが、それもまた、正直なところでしょう。一週間に一度は会っていたとは言ったって、一緒に住んでいるわけでもないし。
今、父の死から一週間を過ぎてなお、これを書いている私にも、実はまだ、実感はあまりありません。実家へ行けば、まだ、父がいるような感じが、どうしたってしてしまいます。

ともあれ、月曜は、子どもを送り届けて、夫は午前中だけ仕事に出て、私は、お坊さんがいらっしゃる前には実家に着き、供花がどうした、通夜の食事は何人分だ、なんつーことを、母と妹とやってたわけです。
葬儀社の方から、希望すれば湯かんも出来るが、どうするか、とお尋ねがありました。

うちの父親は、着る物にうるさい人で、70過ぎだというのに、まだ毎年一度は、オーダーでスーツを新調していました。そんでもって、毎日風呂には入るのに、出かける前は必ず、もう一度シャワーを浴びる、という人でした。
そんな父が、入院以後、結局一度も、お風呂には入れないままでした。(最初に自分で、シャワーつきの個室を選んだのに、すぐIVHとか入っちゃって、結局、シャワーどころじゃなくなっちゃったんですね・・・。)
これはやっぱり、湯かんをしてもらおうよ、ということになり、昼過ぎから、葬儀社の方が専用の車で、湯かんをしに来てくれました。
丁寧にきれいにしていただいて、顔色も悪かったのですが、薄化粧をしていただいて、これは本当に、お願いして良かったです。まるで、生きている人のように、気持ち良さそうに見えました。

そのちょっと前に夫が帰ってきて、あと、母の妹夫婦が駆けつけてくれて、向かいの小母さんがお昼を差し入れてくれたりして、みんなで簡単な昼食。その後、夫が子ども達を迎えに行って、叔父叔母が、うちの子ども達を連れて、子ども用の服を買いに行ってくれました。

燃えにくいものを入れてはダメ、ということで、茶系のスーツと、暗目のピンク色のワイシャツと、えんじのネクタイ、という、いかにも父らしい服を一式、それから、ゴルフのグローブとティーなんかを柩に入れました。

納棺の後、4時30分頃に家を出たのですが、さすがにお棺に納めてしまうと、前夜のように数人で運べる重さではなくなっていました。ホント言うと、叔父がいったん、仕事先に戻らなければならなかったのですが、無理を言って、柩を運び出すところまでは手伝ってもらいました。あと、うちの夫と、近所のおじさんたちと、葬儀社の人と。

斎場に着いてからは、親族がぽつぽつとやってくるので、控え室に案内して、お茶を飲んだりしながら、供花の順序がどうのとか、細かい打ち合わせ。

考えてみれば、結婚してから、私の方の親族の葬式は、10年でこれが3回目なんですね。最初が母の父、次が母の母。で、葬儀の後も、一周忌、三回忌としばらく法事が続くこともあって、うちの夫は、私の母方の親族とは何度も顔を合わせていたので、それは非常に助かりました。

そんなこんなのうちに通夜の時間が近づき、ぽつぽつと弔問の方がお見えになったりしたのですが、皆さん、父が入院していたことも知らない状態で(そりゃ、最初は一ヶ月で退院の見込みだったのが、19日間で死んじゃったんですから・・・)「一体どうして・・・」と口々におっしゃり、その度に母は経過を説明しなきゃなんない。
そんでもって、弔問客も、やっぱり、父の昔の仕事関係とか、母の友人知人関係がほとんどなので、私たち娘では、お顔を拝見してもどなたか分からないこともあり(古いお付き合いの方は、ああ、と思い出せる方もいらっしゃいましたが)結局、母をあちこち呼びまわる羽目に。一人の人と経過を話し出すと、長いこと話し込んじゃうものだから、説明だけでも大変でした。

あとで、弔問客の名簿を見た母によれば、これはどういう関係の人だろう・・・と首を捻った人はほとんどなかったそうです。これは、母によれば、毎年、父の出す年賀状の宛名書きをやっていたおかげで、住所と名前を見るとぴんときたそうで、手書きで名前書きをすることにも、意味はあるのだなぁと変なことに感心しました。

私の、10年以上も前に直属の上司だった方が、忙しい合間をぬって来てくださって、本当に驚きました。実は、私の祖父を昔ご存知だった、ということで、祖父の葬儀にも、どこで聞かれたのか、来てくださった方でした。もう一人、かつての上司がやはり来てくださって、思わぬことで驚くと同時に、本当にありがたく思いました。
それから、小さな子どもがいるのに、わざわざ来てくれた友人。どうしても来れなくて、とお香典だけを言付けてくれた人、弔電をくれた人。みんな、ありがとう。

小さな子どもと言えば、赤ちゃんを抱えたお母さんと、まだ3歳ぐらいの子どもを抱えたお父さん、という若夫婦が通夜に来てくださって、どこのどなただろう?と思っていました。
後で聞いたところ、実家の一軒おいた隣の家の息子さん夫婦で、息子さんは、うちの妹の同級生でした。そこのおじさんおばさんには、今回も本当にお世話になって、特におばさんは、この斎場で着付けの仕事をしてらっしゃるので、今回、母も私も着付けをお願いしたのですが、おばさんも、息子さんには「私たち夫婦が出るんだし、小さい子どもがいるんだから、あんたたちは行かなくても・・・」とおっしゃったのだそうです。
ところが、若奥さんが、「いつも、子どもと散歩している時、おじさん(うちの父)は声をかけてくれて、子どもが木の実を欲しがると取ってくれたり、親切にしてもらったので、どうしてもお別れに行きたい」と言ってくださったのだそうです。
うちの父って、そんなに小さい子に優しかったかしら・・・と、ちょっと驚かされたエピソードでした。(きれいな若い女性にはとっても親切な父でしたから、案外、奥さんの方に親切にしていたのか・笑)。
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by mmemiya | 2010-10-05 22:05 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)