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幸せな夫婦ってどんなだ?

「儒教と負け犬」読んでて、確かに「(日本の)結婚生活が幸せそうに思えない」ことは晩婚化に影響してる、とは思ったものの、そんでもって、「でも、夫婦の<幸せ>って、少なくとも恋愛真っ只中の、高揚感溢れる<幸せ>とは違うでしょ」と思ったものの、んじゃ、夫婦の幸せって、具体的にはどんななんだ?

親の夫婦仲が結婚観に与える影響ってのは大きいと私も思ってるし、そーいえば、ずいぶん前にもこのブログでそんなことを書いた。
うちの夫の両親は、始終口げんかばっかりしてるので、夫はそういうのは嫌だなと思って大きくなったそうだが、その結果なのかなんなのか、我々夫婦はまず滅多に喧嘩ってしない(というか、結婚してもうじき丸10年だが、「喧嘩」と呼べるようなものをした記憶がない)んだが、そんでも、夫の両親は、二人で海外旅行とか、行きまくってるんだよね。(まだ私が「ヨメ」になる前、まぁ婚約者状態のとき、フランスに義両親が二人だけで来て、私、案内したことがあるのだが、目の前で言い争いが始まって、どうしようかと思ったんだけどな~。)

私の両親は、二人で旅行など、まーったく、したことがない。口げんかも見たことないけど、喧嘩するほどの交流がそもそもなかったように見えた。冷え切ってる、っつーほどじゃなかったと思うけど、それぞれ勝手にやってる、って感じ。

まぁ、どっちも日本の夫婦としては、よくあるパターン?ありふれてるけど、「幸せそう」には見えないよね、少なくとも。
(ちなみに、夫の両親は見合い結婚、うちの両親は恋愛結婚・・・の筈だ。)

で、夫に、「夫婦の幸せってなんだと思う」などと聞いてみたりもしたのだが、うーん、言葉で表すのは難しいよねぇ。二人でいるときの居心地の良さ…というのは、例えば、他者には伝わりにくいもののように思うし。(夫の両親や私の両親も、二人でいるときの居心地は、あれで悪くないのかもしれんしな。ううむ。)

私にとっては、色んな話をするとか、美味しいもの一緒に食べるとか、綺麗な景色を一緒に見るとか、色々な時間と感動みたいなものを共有したい相手が夫であることは間違いなくて、そんでもって、そんなことで充分、自分達としては幸せだと思うけれど、それはあまりにささやかすぎて目に見えにくいものなのか、あるいは、そんな幸せすら共有できてない夫婦が多いように「負け犬」酒井氏の目には映るのか、どうなんだろう。(まぁ、「亭主元気で留守がいい」なんて言ってりゃ、そりゃ、二人でいることが幸福であるようには見えないだろうけどなー。)

目に見えるようにベタベタしろってもんではないだろうけど、少なくとも自分の子ども達が親を思い返したときに「二人でいるのが幸せそうには思えなかったなー」なんて思われると、ちと悲しい。
かといって、口下手、表現下手であることに開き直って、「夫婦のことなんか、子どもに何が分かる!」「男は妻への感謝など、口に出さないものだ!」みたいなこと言ってちゃ始まらないしね。

・・・そうか、とりあえず、感謝の言葉を口に出すところから、かなぁ。うち、会話はかなり多い方だとは思うんだけど。(子どもがいると、夫婦の会話に首突っ込んできて、すぐ話の腰を折られるのがちょっとイヤ。)
ま、うちは、40代を迎えようという日本人夫婦としては、多分、平均以上にスキンシップも多いと思うんだけど。(帰宅すると、毎日ではないが、かなりの頻度でハグ!という夫婦は、多分、珍しく…ない?ちなみにこれやると、いっつも娘が「ダメー!」とやってきて、夫と私を引き離しにかかる(笑)。夫を取られたくないんじゃなくて、私を取られたくないらしいんだけど。)
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by mmemiya | 2010-11-24 22:32 | 日々雑感 | Trackback | Comments(7)

「儒教と負け犬」あるいは日本の女は甘ったれか?

金曜、久しぶりに飲みました。
このところ、年に一度程度、ワインつきお食事をする他は、飲み会といえば職場の歓送迎会ぐらいで、ホテル宴会場で出される日本酒など美味しいと思ったこともないし、元からビールはそんなに好きじゃないし(いや、黒ビールとか、エール系はけっこう好きなんだけど…)そんな場では、注がれたときに飲む程度なんで、ちゃんと飲むのも久々、まして泡盛なんて本当に久々。

そういや、昔は妹と、ロックで泡盛飲みながら、カラカラ(泡盛の入れ物ね)をいくつか空けたこともあったような気もしたけれど、もうすっかり夜は寒いし、今回は泡盛も焼酎もお湯割り。
実は、夫の風邪がうつったのか、出かける直前に「この体調は拙いかも…」と思っていたのだが、酒飲んでるときは快調でした(爆)。ま、あまり食が進まなかったのは体調が整ってなかったせいかもだけど、お酒が美味しくいただけたのでまぁそれで良し。飲みながらずいぶん愚痴らせていただきました。おかげさまで、色々と元気になれた気がしますが、よく考えると、目上の人相手になんという厚かましいことをやってるのかしら、私、と、後で反省した(笑)。こんな風に愚痴を聞いてくれる人に恵まれていて、私はきっと、幸せ者です、はい。

往復の電車の中で、新書一冊読了。今井むつみ「ことばと思考」。同じく今井むつみさんの「レキシコンの構築」に前から興味があったのだけれど、素人が4,000円近い専門書を買うことにちょっと躊躇していたら、先日、新書コーナーで「今井むつみ」の名を見つけ、迷わず購入したもの。と言いながら、行きの電車の中ではやや体調が悪く流し読み、帰りは…お湯割り4杯ぐらいで別に酔ってはいなかったものの、まぁやっぱり、じっくり読む環境ではなくて流し読み。
言葉が思考を規定する…と、まぁ、碌な知識もない私でも、粗雑なサピア・ウォーフ仮説もどきみたいなものを漠然と信じてはいたのだけれど、本当に言語が思考の方法を限定するのか、これまで科学的な検証はあまりなされてこなかった、と言われると、なるほど、そうなのかも。非常に楽しい本です。またじっくり読み返そう。

土曜。なんとなく、熱もないのに体調がすっきりしない一日。やっぱり夫の風邪をうつされていたのか…。前日から葛根湯飲み続けてたんだけどねー。必要最低限の家事しかせず(息子は朝から子ども会行事で出かけていった)ゴロゴロと本など読んだり昼寝したりして過ごす。
「儒教と負け犬」酒井順子、出てからもうずいぶん経つ本なんだけど、東京、ソウル、上海、それぞれの東アジア都市での30代未婚女性の生態を、インタビューなどして、共通点と相違点を探っていく本。これが、予想よりかなり面白い。
私は、日本の晩婚化の一因には、絶対に「恋愛は素晴らしい」という雑誌漫画ドラマその他諸々からの刷り込みと、「結婚とは当然、恋愛の結果によるもの」みたいな価値観が絡んでる、と思っていたのですが、酒井さんは、晩婚化の原因の一つは「儒教」にあるかも?と考えるんですね。
男女は平等、という教育を受けて、一生懸命頑張ってきた女性達。でも、男性は結婚相手には「自分よりちょっと下の学歴」「自分よりちょっと下のキャリア」(ついでに年齢も「ちょっと下」か?)を求めたがる。一方で、女の側にも「自分より<ちょっと上>の頼れる男がいい」みたいな意識が、どこかに根強くあるんじゃないか、と。で、まず、なかなか結婚相手を見つけにくい。更に、「女はどれだけ働いても、家では家事を一手に引き受け、男を立てないと」と言われりゃ、そんなきついことを求められたら、そりゃ逃げる女もいるよね、子どもなんか産んでられないよね、ということにもなる。
で、3都市の未婚女性を比べると、日本の「負け犬」が、一番、「男性と対等である」という意識が弱いのだそうです。でもって(これは「だから」とつないでいいのかどうか)セックス経験が一番豊富なのは日本の負け犬。不倫率もダントツで高い(まぁ、当事者アンケートに基づく数字、とはいえ)。これでいいのか、と酒井氏が不安になったのもむべなるかな。(これも、雑誌とかが「恋愛してないと負け」「セックスしてないと負け」みたいに煽っている結果ではないか、と著者は書く。)
あと、日本においては、結婚と幸福との結びつきがあまりにも希薄である、とも彼女は書いています。
まー、色々な話が出てくるので、とてもここで全貌は紹介できませんが、結婚願望など全然なかったけど、たまたま30で結婚した私としては、けっこう、「負け犬」の話はひとごとじゃないと思えちゃうんですわ。ただ、「同棲なんて当たり前」的な日本負け犬の価値観は、都会限定のような気も…。ま、私の身近でも「婚約中」で一緒に住んでる人とか、知ってることは知ってるけど、この田舎では「当たり前」じゃない気はする。というか、私なんて、たまたま二人とも実家住まいだったので、色々メンドクサイし一緒に住むかぁ→正式な(法律上の)「結婚」という形にこだわるわけじゃないけど、親もいる地元で同棲ってのも(相手の親に)何言われるか分からんなぁ→ならまぁ、結婚するかぁ、というのが結婚した経緯だったので、同棲への心理的ハードルはけっこう高かったのよね。

「結婚と幸福の結びつき」については、恋愛真っ只中の状況だけを「愛し愛される幸福な姿」だと思ってしまうと、結婚生活乗り切るのはきついだろうなぁ、と思う。日本の結婚が幸福でないのか、「幸福」の定義が問題なのか、その辺は微妙かも。
そこらの「少子化対策」の担当の方がこれを読んで、なんかの政策が打ち出せる、とはあまり思えませんが、「負け犬」の人に限らず、日本人全体が、もっと、「幸せなくに」(政治的スローガンみたいでヤだけど)ってどんなもんか、考えなきゃいけないんじゃないの、という気は、すごくする。

あー、あと、この本読みながら、もう一つ思い出だしたこと。金曜、飲んだ後に、なんというか、男の人の家庭に対する責任感というものと比べると、自分の考えってかなり甘いかなー、と、ふと思ったのですよ。いや、毎日、実際のご飯を作って食べさせることに関しては、それなりに手を抜かずにやってるつもりなのだけれど、精神的な意味で家族を養っていく、という責任感ね。共働きの私と一家の大黒柱を比べるのはおこがましいかもしれないけど、一家の稼ぎの半分強は自分が担ってても、なんとなく、最終的に支えるのは夫、みたいな意識が、私の中にも、どっかにあるかなー、という。
自分の方がどうしても、家事の負担が多い気がして、なーんか不公平、という感覚が、結婚10年経っても微妙にぬぐえないのが正直なところなんだけど、メンタルな意味での責任感だけ夫に押し付けて「私ばっかり大変!」って言ってるのって、ずれてるよな、と、ちょっと考えさせられた。(別に金曜日、そういう会話を直接したわけではなくて、なんとなく、私がそう感じた、ってだけのことなんだけど。)
別に、日頃「いざとなったらいつ辞めてもいいし」と思いながら仕事してるわけじゃないつもりなんだけど、どっかで、女だから、と、逃げを考えてる自分がいるかな、と。
そう気づいたところで、自分が一朝一夕に変わるわけではないけれど、ちょっと、もう少し、考えてみようと思う。

さて、これを書いている今日は、夫の実家で、いつもの通り午前中から夜8時まで過ごして来ました。夫の実家では、いつも、ものすごい量の食事を出されるので(っていうか、それを作るのは主に義姉と私であるわけですが)そんでもって、揚げ物とかのことが多いので(今日はイカのリングフライを大量に揚げ続けた私・・・)このときだけは、いつも、自分が「逆流性食道炎(胃食道逆流症)」であったことを実感できます(笑)。したくない。
なるべく自分の分は少なめによそったつもりだけど、今もちょっと胸焼けが…うう。
夫も、実家へ帰ると、いくつになっても義母の中では高校生並に食べることになっていて(笑)、食べろ食べろと言われ続けるので、夫も食べすぎで帰ってくる。やれやれ。
そして今日は、夫の実家へ出かけようとしたらいきなり車のバッテリーが上がってるとか、散々な一日でした。(結局、夫の実家まで歩いていって、ブースターケーブル借りて、で、バッテリーを交換した…。最近、たまにエンジンかかりにくいかな、とは思っていたけど、そんなにバッテリーが弱っているとは思っていなくて、他にどこか悪いところがあるのかと焦っちゃったよ。結局、バッテリー以外はチェックしてもらったけど問題ないそうですが・・・。)
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by mmemiya | 2010-11-21 22:10 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

わーく・らいふ・ばらんす

仕事内容が変わって、なんだか気持ちの上でなかなか落ち着かない。

なにしろ、私は定時で帰らなきゃならないってことには変わりはないのだが(保育所に、というか、市役所に、勤務時間の証明書を、勤務先で証明してもらって提出するのだが、その「勤務時間+職場から保育所までの時間」しか保育時間として認められないので、残業の入り込む余地はゼロなんである。あまりにきつくて、入園当初、「市役所の職員で保育園児のいる方は毎日きっちり定時で帰れるんですか」って市の保育担当課に電話したぐらいなのだが、「各個人のことは分かりません」とかって逃げられちゃったよ…)周囲が、ほとんど、22時だの23時だの24時だのに帰っているらしいのである。

この時期のことだけなのかもしれないし、とりあえず、私は私の仕事はそれなりにこなしているつもりなのだが、なにしろまだ自分の仕事のボリュームやら、やるべき時期やらの全体像が掴みきれていないので、イマイチ、毎日定時で1年間大丈夫なのか自信が持てないところへもってきて、まわりがみんなそんな時間に帰っている、というのは、相当のプレッシャーというか、なんというか、どうも気持ちの上ですっきりしないんである。

周囲にいる人間にそんな後ろめたさを持たせるというところも、「残業」の悪いところだよなぁ、と思う。どうせ残業するから…と仕事するのと、残業は出来ない!と集中してこなすのと、どっちが能率が上か、って話もあるし、大体、人間って、一日に12時間も集中して仕事できるものなのか、とか、色々言いたいことはあるのだが、なんとなく、「お先に失礼します」の人間は悪いことをしてるみたいなんだもんなぁ…。まぁ、定時で帰る人間と、毎日5,6時間残業する人間とがいるってのは、仕事の配分のバランスが悪いっていうことだろうし、となると、早く帰っている人間は、本来背負うべき仕事量より少ない仕事量しかやってないって話にもなるしな。(でも、今の仕事の分担を決めたのは私じゃないので、私が罪悪感を覚えるのも何か理不尽な気もする・・・)

少子化でワークライフバランスがどうのと言ってみたところで、そうそう世の中、すぐに大きな変化がありそうにもないが、「定時で帰る」ことが第一条件になると、仕事の内容であれに興味があるとか、こういう分野の仕事をしてみたい、とかいうことが言えなくなる、というのもそれはそれで結構辛いものもある。今はしょうがないんだ、と、自分に言い聞かせてはみるものの、なんでほとんどの仕事が「残業できる」ことが前提で成り立っているんだよ!と、やり場のない怒りをもんもんと抱え込んでみたりもするし、ついつい、男はいいわよねぇ、仕事第一でやってりゃいいんだから、と、世の男性諸氏に八つ当たりしたくもなったりする。
分かってて踏み出した道の筈なのにねぇ。

なかなか評判のいい本だったので「働くママのための定時に帰る仕事術」という本を買ってみた。別に「働くママ」に限らず、能率よく仕事や家事を進めるためのヒントがあれこれ詰まっていて、これは色々ためになりそう。まだ読み始めたばかりだけれど、既に反省すべき点が色々出てきた。

まぁ、とりあえず、気を取り直して、自分の仕事を能率よく時間内で仕上げることだけに、まずは力を注ぐとしますか。っていうか、現実問題、それしか出来ることはないし。
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by mmemiya | 2008-04-16 22:23 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

ロマンティック・ラブ・イデオロギーを離れて

受験勉強をしなければならない。

それは分かっているのだが、そういうときにここぞとばかり、別の本が読みたくなるのは何故~。

気になっているのは、「子どもの社会力」という本と、もうかなり古い本なんだけど、山田「パラサイト・シングル」昌弘氏の「近代家族のゆくえ」。
あ、松浦理恵子が新作出してるの、ちっとも知らなかったしなぁ。しかし、ハードカバー、高いしな…。それにしても、親指P(女の子の片足の親指が、男性の性器になってしまう、というお話)からもう14年も経っているなんて。

近代家族…の方は、要するに、私がずーっと気になっていることって、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の呪縛と崩壊と、そしてその後、ってことなのかなぁ、と頭の中が整理されてきたから。
ロマンティック・・・とは、簡単に言ってしまえば「恋愛と性愛と結婚の三位一体」などとも言われるけど、要は、「誰か(この場合、後で生殖が出てくるので必ず)異性を好きになり、その人と(その人だけと、がより正しいか)肉体関係を持って、そんで結婚する(+子どもを産む、かな)のが至上の幸せ」という考え方のことね。

分解していくと、互いに激しく好きあって結婚を決意する。結婚するまで誰とも性体験がない。婚姻後、もちろん、配偶者以外の相手と性的関係を持たない。配偶者以外の相手に恋愛感情も抱かない。もしも違う相手に恋愛感情を持ったら離婚する、って感じ?
(ちなみに、これらのどれ一つとして、人間にとって「当たり前」というものはなく、全ては社会的・文化的に規定されるのみである。ちょっと前までは日本でだって、経済力さえあれば男は複数の女性と公認の性的・あるいは恋愛関係を持てたんだからさ~。)

結婚というのが個人の意志に基づくようになって、また、性の乱れがどうの、とか言われるようになって、それに対する解決策?として強調されてきたと思われるこのイデオロギー。私なんかは主に少女マンガからの刷り込みによって、これに影響されてきたことは否定できない。

多分、色んな方面から、このイデオロギーは崩れかかっているとは思う。しかしながら、じゃあ、それに変わるスタンダードは、といえば、まだ見出されているとは思えない。
とりわけ、恋愛と結婚を分離できないあたりに、晩婚化・未婚化の一因もまた、あると思う。いや、恋愛と結婚自体は分離されているのかもしれないので、結婚の理由として、「恋愛」以外の強力な解を我々が持ち合わせていない、と言い換えるべきか。この先、見合いが非常な隆盛を誇る、というパターンも考えにくいし。じゃあ、結婚・家族形成・再生産という営みを、恋愛を経ることなしにどうやって始めたらいいのか?というようなことだ。

もちろん、遠い昔から各種の恋愛小説やら伝説やらがあるとおり、そこから結婚に進む、という人は、常に一定数いると思う。が、それは結婚理由の100%にはなりえないものだろう、というか、多数派になることがそもそもありえることなのか、というか。
<レンアイ>を煽ることで不要な悩みを抱え込ませるのは健全とは思えないが、じゃあ、レンアイなんて全て禁止してしまえ!と言うこともできない。どうせ禁止されればなお盛り上がる、って層もあるだろうし。

まぁ、したい人が恋愛するのはご自由に、として、結婚を恋愛の果てにおかず、んじゃ、結婚ってどこから始めるか、なんだろうなぁ、少子化対策の根本って、っていうような気がしている。
あるいは、ある程度の恋愛を経て、それとは全く無関係に結婚へ至る道がどこにあるか、というかねぇ…。昔はそれが「親の決めた道」だったんだろうけどさ。そんな時代に戻りたいわけでもないし、戻れないし。

とりあえず、近代家族のゆくえ、は、マーケットプレイスで注文してしまったわ。

ところで、話変わりますが、やっぱり、竹内まりやって人は、基本的に自信のある人なんでしょうなぁ。純愛ラプソディー歌ってて思った。「恋の舞台に上がっても 脇役しかもらえなくて♪」なーんて主人公の歌だというのに、「さよならが 永遠の絆に変わることもある」だもんな。
相手が永遠に自分を思ってくれるという確信があるというのは(だからこその「絆」って単語でしょ。自分の中だけで相手の記憶が永遠になるのでは、こうは歌えない。)すごいわ。
永遠ってのを、ま、死ぬまで、と言い換えたとしても、まず、人の心の中なんて絶対に分からない。「永遠に忘れない」と、たとえ言われたとしても、それが本気か知る術はないし、「死ぬまで忘れなかったか」なんて、死ぬ間際のその人本人しか、確かめようがないことですから。

・・・あー、ワタシってつくづくマイナス思考なのね。イヤだわ。

ついでに言うなら、男という生き物から、自分の欲しい言葉をもらおうなどという空しい望みも、そろそろいーかげん、諦めるべき年なのかもしれんなぁ。(これは、自分が年食ってるから最早そういうやり取りが不似合いだ、ってことじゃなくって、いい加減にいい年になれば学習しろよ、って意味ね。まぁ例えば、少女マンガのオトコってのは、所詮オンナが描いたオトコにすぎない、っていうような意味。)

とりあえず、元同僚と、諸々のストレス発散のためにカラオケ忘年会を企画した。カラオケなんて何年ぶり?もっとも今のところ、確定してる参加者は2人だけ。2人でカラオケって、一人が熱唱して、もう一人はそれ聞かずに自分の次歌う歌探すだけよね(笑)。しかも、30代後半女二人で!ちょっとさすがにそれはね・・・。うーん、ちゃんと人が集まって実現するのか?
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by mmemiya | 2007-11-29 22:59 | 日々雑感 | Trackback | Comments(2)

福祉と政治 あるいは、世界のどこにもユートピアはない

スクーリング一日目終了。

なんというかなー、な気分です。

広い意味で言えば、世の中に政治的でないことなど存在しない、んでしょうけれど、今日の講義は疲れた・・・。
福祉というのは、つらつら考えるに、政治的にいわゆる左翼と言われる立場にある人が熱心に取り組んでいることが多いのかもしれませんが、そして、私は、単純に右か左に分類するなら、明らかに左にいる人間だと自分のことを考えているのですが、それにしても、今日の講師にはちと辟易。
二言目には「日本は遅れている」「厚生労働省が悪い(「悪い」って言葉は使ってなかったかもだけど、結局そういうこと)」だもんなぁ。ふー。

おまけに、今日になって、スクーリング最終日の「児童福祉論」の講師が「事前に自分の著書を読んでおくこと」って書いてることにやっと気づき、昼休みの書籍販売でその本を買い(大学の先生って、大体、こーやって自分の本を買わせますよね、なんか懐かしい)午後の講義中にざっと読み終え(←おい)さらに辟易。

日本は児童福祉につぎ込む予算が少なすぎるとか、まぁそれは分かりますよ。しかしさ、なんで、少子化を論じるのに「戦争をする国、しない国」って言葉が頻発するの。
小泉改革等に象徴される「新自由主義」に強い危機感を覚えて書かれた本だ、というのは分かります。その懸念自体に共感する部分は私も無きにしも非ずです。
そんでもって、新自由主義を敵視する場合、仮想敵国がアメリカであるということはこれまた自明です。対比して、いわゆる北欧型福祉というか、欧州国家が持ち上げられるのも、これまた理の当然でしょう。

しかしさ。一体全体、欧州のどこに「戦争をしない国」があるのさ。スウェーデンにだって軍隊はあるぞ。少子化対策で最近お手本に上がったりするフランスなんか、軍需産業があの国の主要産業の一つなのは間違いないし、ちょうど私の渡仏当時は、コソボ空爆が始まったところだった。ほぼ同じ頃、フランスは徴兵制を止めたが、若年層の失業率がめちゃくちゃ高いあの国では、恐らく、志願制でも十分、入隊希望者が集まると思う。私の母方の祖父は、農家の5男で食えなくて職業軍人になった口なのだが、まぁ、世界中どこでもそんなのおんなじでしょう。
戦争の是非とかそういうことと、なんで少子化問題をリンクさせて語らなきゃならんのか皆目分からん。

まぁ、少子化といえばジェンダー問題が絡められるのは当然だけど、そして私自身は、ジェンダーメインストリーミング(ジェンダー主流化)というのを大切なことだと考える人間だけれど、あの、「女性の就業率が高いほど出生率が高い」図(グラフとは言わんな)、あれはどう見ても胡散臭く見える。中央に引いてある斜め右肩上がりの線を消してなお、あの図をそう読めるのかどうか。問題の本でもこの図が引用されていたが、笑っちゃうのはそのちょっと前に「統計のマジックに気をつけろ」みたいなことが書いてあったことだ。

この手の「日本は遅れている」言説を私が嫌いな理由はいくつかあるが、まず、対比されて語られるような「進んだ」国にも、恐らく何かしらの問題はあって(私はフランスの福祉状況を全然知らないのだが、公共料金の口座引き落とし額がたびたび間違っているような国で理想的な福祉だけが行われているとは信じがたい)ユートピアなんてどこにもないのが当たり前でしょ、ということと、そもそも世界全体を見渡せば日本は圧倒的に恵まれた国で、そこを踏まえずやたらと「先進諸国に遅れている」ばかりを述べ立てるというのはどうよ、という思いと、それから、その「日本」を作ってるのは、他でもないあんたでしょ、と言いたい気持ちがあるからだ。

自分は反対してるんだけど、政府が、官僚が悪いんだ、っつったって、政府を選んでるのは国民だし。そーなると次に、「国民が駄目」みたいな話が出てきて、このロジックの何がイヤって、結局「日本は駄目な国」と語るときの人間は「自分は、そんな駄目な政府を選んでいる人間よりモノが分かっている」という高みに立って物言ってるだろ、ってことだ。人を見下してる匂いが言外にぷんぷんして耐えられない。

あー、あと、今日は一日「遅れてる遅れてる」ばかりを聞いたけど、私が福祉の世界を見知った十数年前(当然、介護保険制度も始まっていない。介護保険制度ってものを作る、ってことは固まってきていたのだが)と比べりゃ、今の方が確実に増えてる資源があると思いますよ。現場の実感として、全然使えないものばっかりだったらゴメンナサイだけど(今は現場のこと、あまり知らないんで。)サービス量だって増えてるでしょ、確実に。

政治的な立ち位置がどうであれ、今、この国にどんな福祉が必要で、何が足りないのか、を、政治信条とは別に、みんなが語り合えなきゃ、状況は良くなっていかないような気がするけどね。
福祉って誰にだって関係することの筈なんだから。こんな講義ばっかり聞かされて「なんかちょっと…」って福祉の世界に距離を置く人が出てきたら、その方がもったいないと思う。

ああ、最終日の講義が今からちょっと憂鬱…。

そうそう、アマゾンから「メディア・バイアス」By松永和紀という本が届き、読み始めました。
この方の本は前にも読んだのですが、今回も、例えば「食品の裏側」という本(前にこのブログで感想書いたな…)にある明らかな間違いとか、色々勉強になりました。
以前に本を読んだことのある、高橋久仁子さんのフードファディズムについての話や、中西準子さんの環境リスク学も取り上げられたりしてるので、全く初めて知ることではない話も多々あるのですが、よくまとまっているし、単純に「アレが体に悪い」「コレがいい」と騒いだりする人間にならないためにお勧めの本です。でも、一番勧めたいタイプの人は、こういう本、読んでくれないような気もするけどね…。
「メディア・バイアス」もまだ半分ぐらいしか読んでないんだけど、ともかく、色んな話を鵜呑みにしない態度って、やっぱり大事ですね。もちろん、この本の受容についてもおんなじことが言えるんだけど。
「◎◎は危険!」的なセンセーショナルな本は売れて、冷静なアプローチなんてのは、なかなかマスコミなんかで取り上げてもらいにくいものだと思うけれど、インターネットというものもあるし、ある言説に対する反論を探すのはネット登場以前より容易くなっているでしょう。

そーいや、中学生か高校生の頃、中津りょう子さんが、幼児への早期英語教育に反対、と書いていらっしゃるのを読んで、世間では、早期に教えるほどいい、みたいな話が多そうだけど、コレは一つ、両者の意見を読まないと、と、早期英語教育推進の本を探して買ったことをふいに思い出しました。その時と今とでは、もちろん、得てきた知識量の違いはありますが、結果として私は、基本的には、早期英語教育には反対です。そしてもちろん、この世の全ての問題と同じように「黒か白かのどっちかしかない」「こっちだけが正しい」ってことはないと思ってます。

…時間がかかることだけど、結局、そーやって一つ一つ、自分の中で消化していくしか、ないんだよなぁ。うん。
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by mmemiya | 2007-09-22 01:39 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

「若者殺しの時代」 堀井憲一郎

せんだって亡くなった祖母は、多分20年以上、亡くなる直前まで、毎週、週刊新潮と週刊文春を買い続けていた。他にも、婦人公論とか、最近は買わなくなっていたけどクロワッサンとか、あの年になってよくもあれだけ何かを読もうという気力があるものだ、と、感心するほどだった。

で、読み終わったそれらの雑誌が、我が実家にまわってきていたので、私も割とそれらをパラパラ眺める年数が長かった。中学生の頃は、文春の「淑女の雑誌から」やら、新潮の「黒い事件簿(だっけ?)」なんかを盗み読んでもいたし(笑 でも婦人公論の読者投稿手記の方がもっとえげつなかったよなぁ…)。
で、もちろん、「ホリイのずんずん調査」も読んでいた。その堀井氏が出した本が、なにやらどうも、ネットで見ると気になる本だったため、購入。

あ~、なんか、私がこの間からこのブログに書き散らしてるようなことと重なるな~、というのが感想。
まぁ、堀井氏は、日本の現状を「戦後処理が棚上げにされている」というよりは、「戦後、ひとつのシステムが動き出し、それがもう、制度疲労というか限界に達している。そろそろこのシステムは終わりだ」というように捉えているようだけれど、いずれにせよ、私の何の後付もない勝手な落書きよりは、あれこれと傍証を挙げてその「制度の変化と終わり」を検証している、って、当たり前か。
若者がただの大人一歩手前だった時代から、「若者」というカテゴリーになり、あれこれ消費に明け暮れた時代、そして今、若者であるということが損である時代、というような話だけれど、ひとつ、非常に共感したこと。
「もういい年なのに、いつまでも若者気取りの人間が多い」みたいなことが書いてあるんですよ。それは、その人たちは若者であることによっていい思いをしたからだ、とも。
そうね~、自分を振り返っても、客観的に言えばいい大人であるべきなのに、まだまだ大人になりきれていないよなぁ、と思ったりするわけですが、それって思いっきり無責任かも。
でも、これを読んで思いました。そうか、少子化も、ひとつはそれが原因かも、と。
子ども産むと、どうしても「若者気分」だけで行動してばかりはいられなくなりますからね。夫婦二人なら、いつまでも、カップル時代のようなライフスタイルを維持することも可能だけど。

大人になるって損ばかり、と思ってきた、ということなのかなぁ、逆に言うと。だとすると、「大人になるというのはいいことだ」と胸をはれる大人にならなきゃいかんのか。うーん、難しい。
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by mmemiya | 2007-02-26 23:10 | 読んだ本 | Trackback | Comments(3)

みんな自分が貧乏くじを引いたと思っている

厚生労働省が出している広報誌で、その名もなんのひねりもない「厚生労働」という冊子がある。
その2月号に、夜回り先生こと水谷修さんのインタビューが載っていた。若者が仲間から悪いことを誘われた時にどういう手法で断ったらいいか、という話など、なかなか興味深いものばかりだったが、一箇所、え?と思った部分があった。
どうやったら非行や薬物といった問題が解決するか、という問いに対して、水谷氏は、もう一度、高度経済成長期みたいな時代になればいい、というようなことを言っているのである。

その意図は、努力すれば報われて豊かになっていくべき、ということらしいのだけれど、これを読んだ瞬間、その水谷氏の本来の意図とは無関係に、突然、それまで私の中でもやもやしていたものが、いきなり、実感として胸にすとんと落ちた。

どれだけ本を読んで分かったつもりになっても、心底から実感する、というのはまた別のものだ。そんな感覚が突然訪れたのだ。

私は社会問題を系統立ててきちんと勉強してきたわけでもなんでもないから、全く的外れのことを言っているのかもしれないし、あるいは同じようなことは、どこかの誰かがとうに言っているのかもしれないけれど。

その実感を一言で表すならば、「あ~、日本って、戦後、社会とか人間の価値観をどう再構築するか、ってことをうやむやにしたまま、経済成長で何もかもこれでいいんだ、という気になって、それが翳ってきたら、それまでずっとそこにあった不動産なるものを突然むちゃくちゃ評価したり、若者を消費主体にひきずりこんだりしてなんとか経済成長を続けようとして、そんでもってそれがはじけてにっちもさっちもいかなくなっちゃったのね~。え~、じゃあ、私たちが今押し付けられてるのって、戦後処理なの?終戦から60年も経ってか?それを、ただでさえ人口構造やら何やらで先行きが大変そうなのにやらなきゃいけないの?勘弁してよ~」という感じだ。
あ、ぜんぜん一言じゃない。

いやぁ~、上の世代って何もかも人に押し付けておいて勝ち逃げしてるよな、というのは、多くの若い世代の感覚じゃないかと思うのですが、まさか第二次世界大戦の清算まで押し付けられてるとは思わなかったよ。いや、この私の感覚が正しいかどうか、というのはありますけどね。

なまじっか経済が急成長して世界でも有数の豊かな国になっちゃったせいで、もうこれでいいんだ、みたいな気分になっちゃったんじゃないかなぁ。
おまけに、その時代にうまいこと機能していた「企業戦士」やら「家族が過労死しそうに働く男を支える仕組み」やらなにやらを懐かしがる人の多いこと。政治家の偉い人とか、どー考えてもあれらの言動は、「あの頃、それでうまいこといってたんだからあれでよかったんだ」って感じでしょ?女の社会進出が良くないんだとか、働きたくないなんて若者はわがままになった、とか。
なまじっかな成長のせいで、たまたまその時うまくいっていただけ、という制度が強烈に学習されちゃって、状況が全く変わってるのに、それでまだうまくいくんだと思ってるんだから始末に終えない。表面上、どうとりつくろったところで、本音はそれだろ?みたいな人間のなんと多いことよ。

お前の今の豊かさ(私が日本の中で金持ちだということじゃなくて、どう考えても日本は世界でも数少ない豊かな国であるということ)はその時代のおかげだろ、と言われれば言葉もないわけだが、いやしかし、つくづく罪な時代だった。
いったい私たちは、これからどうすればいいんでしょう。

とりあえず、自分だけが貧乏くじを引いたと思って他の世代を羨んだり、別の立場にいる人を妬む(医者は高給取りだからけしからん、とかね)というのは問題の根本的解決にならないのは分かっているので、そういう安易な道に走らずに、何をすればいいか考えないといけないわけですが。ってエラそうだけど、結局、偉い人が一人で社会を変えるはずはなくて、何事も他人事にしないことが全ての第一歩、とは思うので。

注:水谷氏のコメントはただのきっかけに過ぎず、これらの私の愚痴とはなんらの関係もありません。ただ、物質的な豊かさが保障されれば精神活動に何も問題が生じないかといえば違うと思うけどね。貧しさが引き起こす問題というのは否定できないですが、もちろん。
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by mmemiya | 2007-02-24 15:33 | 日々雑感 | Trackback | Comments(4)

後期スクーリング一日目終了

金曜日ということで、子どもたちは夫が保育所に送迎したのだけれど、私が先に出かける(=一緒に保育所へ行かない)と分かった途端、娘が号泣。ま、帰ってきたときは上機嫌で「おかーさーん!おかえりー!」と、二人揃って出迎えてくれましたが。

今日は授業+科目試験の他に、自由参加ですが国家試験対策等についての話があって、それに出てきたのでちょっと遅くなってしまいました。

社会福祉士の試験って、合格率が、大体3割弱なんですよ。それだけ見ると、すんごい難しい試験のようですよね。
でも、6割正解できたら合格なんです。試験科目が13科目あって、そのうち1科目でも0点って奴があると落ちちゃうのですが、0点でさえなければ、多少のデコボコがあっても、トータルで6割正解できていればいい。それだけ聞くと、そんなに難しくもないようにも思えますよね。

私の行っている学校は、通信課程と夜間課程があるんですが、夜間の国家試験合格率って、9割近いんですよ。通信は半数ちょっと。それにしても全体の合格率よりはるかに高い。
これは、どうも、この学校が特に優秀だから、というわけではなく、受験者の問題らしいんですね、今日の話によると。
福祉系の大学を出た(卒業見込み含む)人は、それだけで、社会福祉士の国家試験を受けられます。私のように、福祉系を出ていない人間は、専門学校を修了しないと受験資格がない。
で、福祉系の大学の学生が、どうも、あんまり受験勉強をしたわけでもないけど、いっちょ受けてみるか、でかなり受けるらしいんですよ。で、全体の合格率を引き下げている、と。

これが、医学部とか薬学部とか看護学部とかならねぇ。多分、その年に国家試験に受かるかどうかって、学校側にとっても大問題ですよ。だって、業務独占ですからね、あれらの資格は。逆に言うと、資格がなければ、その仕事できない。大学で勉強してきたことは、試験に受からない限り、パァですから。医学部出て、医者になれなかった人が、じゃあ、どこへ就職するか…。(そういう人、ゼロではないとは思いますけど。)
だけど、福祉系は、別に、社会福祉士取らなくても、福祉の仕事できるんです。そもそも、福祉系の大学でたからといって、福祉分野で働くかどうかもわかんない。法学部出た人みんながみんな、弁護士になるわけじゃないってのと、ちょっと似てるかも。法学部出ても、それと特に関係ない仕事をしてる人も多いだろうし。
で、学校側も特に試験対策を必死にやるわけでもなく、現役大学生の合格率は高くない。そんでもって、福祉系の大学が近年やたらに増えていることもあり、大学生が受験者のかなりの割合を占めているため、結果的に全体の合格率も低いのだそうです。そうだったのかー。
(講師は「記念受験」とか言ってましたが・・・私にとってはその言葉って、「多分受からないけど早稲田を受けてみる」とか、そういう意味の言葉だったんですけど、そういう記念受験もあるんですねぇ。)

今から過去問とか見てもねー、傾向変わるかもしれないし、来年、最新の奴で勉強すればいいやー、とか思っているので(その最新の過去問と自分が受ける試験との傾向が違う可能性は勿論ありますがね。)試験のレベルそのものもよく分かってなかったりするのですが、まぁ、それなりに試験前に集中して取り組めば(そんな時間があれば…)なんとかなるんじゃないかなー、というのが、今日のオリエンテーションで得た感触。

あと、もう一つ、自分にとっては朗報だったのは、「社会福祉法人系の施設では、この資格を持っているということは特段の意味はないことが多いけど、医療法人系の施設では必須に近い」という話。病院というものは、基本的に、全てが資格職の集まりだからして、資格というものを重要視しているらしい。業務独占ではないけれど、一応は、これも国家資格だし。
私がやりたいのは病院のワーカーなので、こりゃ、やっぱり、この資格を取ろうというのは、方向性としては多分間違ってないぞ、うん。(まぁ、医療ソーシャルワーカー<MSWと略す>の資格がイコール社会福祉士資格でいいのか、という話は、またあれこれありまして…。でも、現実問題として、MSWの国家資格化は実現していないんだし、多分、新たな資格が制定される可能性も低い。)

実は、心理学方面、とりわけ発達心理学にも興味があったりはする私なのですが、心理に関しては、国家資格って、まだないんですよ。ないので、色んな学会が、それぞれ資格を認定してます。(その資格の中に、有力な、というか主流派のものとそうでないのがある、って感じ。)ただ、あっちはみーんな、大学院卒(修士)が基本です。長く働いてきた人への例外規定みたいなものが経過措置みたいにあるけれど、基本的に、修士が前提条件。私みたいに、学部で心理をやったわけでもない人間だと、えーっと大学に編入学して1~2年勉強して、そんで2年修士やって…ちーとそれはきつすぎるな~。で、それだけやって、資格とって何、ってのもあるし(これは社会福祉士だってそうなんですけどね、資格とって何、ってのは。)逆に言うと、資格がなくたってその世界で仕事をすることは不可能じゃないし。まだ、私自身、興味がある=仕事にまでしたい かどうかは分かんないし。とりあえず、ちょっと調べたら、放送大学の講座に心理学関係がいっぱいあることが分かったんで、社会福祉士取れたら、次は放送大学でも検討しようかな~。

それにしても、人間が一人前ってみなされる年齢って、色んな分野でどんどん引き上げられていってますね~。薬学部が6年になるんですよね?医学部みたいに。私の学生時代(10年ちょっと前)は、理系の一部では、修士ぐらい出てないと専門的な仕事はできない、という風潮があったように思いましたが(私は全くの文系なんで、間違ってるかも)、文系で大学院へ行くって言ったら、そりゃもう、研究者になる人だけ、って感じじゃなかったでしょうか?
何を隠そう、高校の時の家庭科の授業で書かされた、自分の人生の将来設計(ライフなんとか)に「大学院へ行って研究職になる」って書いた私なんですが、実際に大学入ってみたら、概論みたいな勉強は楽しいけど、研究者って、すんごく細かいテーマを、いっぱいいっぱいいっぱい勉強して掘り下げて~掘り下げて~、って、あーこりゃだめ、私にはとてもできん!とあっさり3年次で進学は断念いたしました。
それがいまや、文系の大学院もどんどん数が増えて、ちょっと専門的な職業に就くのには院、みたいになってるようで。院へ行く=就職はしない、とは違ってきてるんですね。もちろん、院を出れば必ず希望する就職が出来る、って訳ではないんでしょうが。社会人向けの大学院も増えてるし(ちょっと調べたら、心理学でも夜間大学院とか、通信課程の大学院とか、ありますね~)そーいや私の友達(大学の同級生)で、最近になって院へ行き直した人もちらほら。

どうなんでしょ。そんなに、人間に、特に専門職に求められる知識が、急激に高度になってるんでしょうか。ちょっとだけ疑問だったりしますけど。少子化が、少子化が、というなら、とっとと早い年齢で社会人になって働いてもらう方が良さそうなもんですけどね、税収増には。

今日のオリエンテーションで言われたことをもう一つ。試験対策は所詮受験勉強。暗記物に強い人が受かる。それと、その人がソーシャルワーカーとして高い技術を持っているかどうかは無関係。援助者としての「腕」を磨くには、特に通信教育だけでは甚だ不十分。資格を取れたとして、それで自分はどうするのか、どうしたいのか?自問自答すべし、とのこと。はい。肝に銘じます。
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by mmemiya | 2006-09-23 00:47 | 医療ソーシャルワーク | Trackback | Comments(0)

助産行為関係の追記

産婦人科での助産行為事件に関しては、院長が開きおなった後一転謝罪、とか、分娩後期でも看護師が内診をしていたとか、色々話が出てきているけれど、少なくとも、世の中の、看護師が「助産行為」をやっている病院を全部取り締まったら、事態が良くなる…という話では、全くないだろうな、というところがなにより哀しい。

違法行為とのつながりで言えば、医師じゃないもの、あるいは医師の指示を受けていない者が仕事として医療行為をやっちゃいけないのは勿論なのだけれど、じゃあ医療行為とは何か、という話があって、助産行為同様、それは法律とかに列挙してあるものではない。おかげで、国が「これは医療行為ではない」という通知を出すまでは、ヘルパーさんが利用者さんの爪を切ったり、薬を飲ませたり、座薬を入れたりというのも医療行為だ、ということで、ヘルパーさんはやっちゃいけないものとされていた。
今回の、看護師の内診について、それは助産行為なのか?という疑義が呈されているのも、これと同じことだ。爪きりだの耳掃除だのが医療行為といわれれば、そんなアホな、と笑い飛ばす人は多かろうが(詳細はこちらを参照してください)、医師の指示の下に看護師が行う「医療行為」と、「助産行為」(医師か助産師しかできない)を分けるものは、じゃあ何なのか?

なにより、実態として、数多くの産婦人科で、看護師の内診は続いてきた。実態があるから認めろ、というのは間違っているだろうが、さりとて、そんな産婦人科を次々検挙していけば、ただでさえ激減しているお産の場が、ますます減る、ということは、みんな分かっていたはずなのに。
厚生労働省が、この問題について話し合いを続ける、という態度だったこと自体、それが分かっていたからなのだろうに。
助産師資格を持っている人を揃えさえすればいい、という問題でもまたなく、10例ほどのお産を取り上げて(少子化とか、医療事故への恐れ等から、助産師資格を取るための、このお産を取る経験が、現在、なかなか何件もできないそうですが)助産師資格を取ったものの、その後、看護師として、お産に関係ないまま働いている、という人も、世の中には大勢いる。そういう人たちをかき集めたからといって、じゃあ、看護師しかいない医院と比べて安全なお産ができると言えるのかどうか。

少子化が問題だ、問題だといわれ続けているのに、安心してお産のできる場所がどんどんなくなっていっている、というこの現実。
お産は病気じゃない、昔はみんな自宅で産んでいた、と言われても、それでもやはり、母子の命に危険が及ぶこともあるお産。
万全の体制を整えたところで、妊産婦死亡や早期新生児死亡がゼロになることは絶対にないけれど、安心して妊娠できる環境を取り戻すために、今、私たちにできることはなんなのだろうか。
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by mmemiya | 2006-08-29 21:11 | 日々雑感 | Trackback | Comments(0)

悪い病院なのねぇ~で終わる問題ではない

<横浜の病院>准看護師ら助産行為、神奈川県警が捜索開始

第一報をネットで見て驚いた。
この問題は、もう長い間、医師会と厚生労働省その他、関係団体の間で揉めている問題で、実際のところ、現在でも、看護師が助産行為をしている病院など、他にいくらでもあるだろう。(私が第二子を出産したところでも、陣痛が来て最初に内診をしたのは助産師ではなかった。看護師なのか準看護師なのかまでは、尋ねなかったし、知らないが…)

「医師一人では、特に分娩第一期に、何度もお産の進行状況を確認している時間がない。かといって助産師はそんなに大勢いない。だったら、看護師に適切な研修等を実施して、医師の指示の下、内診行為(更に具体的には、子宮頚管の状態、児頭の下がり具合のチェック)をさせればよい」「このままでは、分娩の取扱いを続けられない医療機関が更に増える」という意見が一方であり、他方では、「子宮頚管の状態と、児頭の下がり具合を診るだけの行為を、他の行為と切り離せるのか。それ以外の、例えば児の回旋の状況などを確認して、なすべきことを総合的に判断しなければいけないのではないか」「助産師資格を持ちつつ、看護師として働いている(助産業務をしていない)者が相当数おり、その人々を活用すべきではないか」などといった意見あり。
で、「助産行為」の見直しについては、少なくとも厚生労働省においては、まだ、別途議論する、ということになっていたはず。
参考URL

そんな中で、このニュースである。厚生労働省の判断と県警の判断というのは無関係なのかもしれないけれど、話し合いに全く決着がついていない段階で、いきなり家宅捜索。容疑が保助看法違反ときた。医師側にしてみれば驚天動地の出来事ではないか。

最近、何かと言えば、医師が逮捕されたりというニュースが世間をにぎわせるけれど、まさかこの問題で、こんな唐突な捜索が行われるとは私は思わなかった。もちろん、背景には、一人の妊婦さんが亡くなっている、ということがあるわけだけれど、その死亡と、看護師の内診行為とに、果たして因果関係があるのか。あると言えそうと踏んだから、捜索に至っているわけか?(素人考えでは、そんな立証、ものすごく難しいのでは、と思えるのだが…)

私は専門家ではないので、助産行為とは何か、とか、それを助産師ではなく看護師が行うことの是非、とか、助産師の受けた教育と看護師の教育の違い、とか、そういったことは何も分からない。分からないけれど、専門家の間でさえ、どうすべきなのか意見が割れている問題で、そう単純に、善だ、悪だ、という結論が導き出せるとは思えない。
根拠となる厚生労働省の通知にしたところで、保助看法そのものには「助産とは何か」の定義はないから、「助産行為を看護師がやるのは違反」というなら、じゃあ助産行為とは何か、から話を始めないといけないのに、厚生労働省が一方的に通知しているだけ(=その通知は厚生労働省側の法解釈であって、そもそもその法解釈でいいのかどうか)という話だって出てくるのだ。

少なくとも、これは、「うわぁ、悪いことしてた病院だったのねぇ~」なんて、単純な結論を導き出せるような話ではない。
そして、今現在、この病院で出産を予定している妊婦さんたちは、どこで出産の日を迎えるのか?突然助産師を大勢雇えと言っても無理な話。かといって、これだけお産ができる病院が減っていると騒がれているご時世に、他の医療機関が引き受けられるのか?

なにより、これで更に、お産を扱う医療機関が激減したとしたら、どこの誰が、どんな責任を引き受けてくれるというのだ?
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by mmemiya | 2006-08-25 00:29 | 日々雑感 | Trackback | Comments(4)