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La Lune Lunatique

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つまり書くこととは自分をさらけ出すことなのだ

当たり前のことだが、書く、というのは自分をさらけ出す行為に他ならない。

と、竹内まりやの「駅」解釈に対していただいたコメントを見て改めて感じた。

要するに、私は、どっちかっつーと疑心暗鬼型の人間なのよ。

以前に、「誰かが自分に気があるというのは割と伝わるもの」みたいなことを書いたのだが、それは一面では真実なのだが、一度は「これは脈があるかも」と思っても、その感覚は長続きはしない。そのうち、疑いがもたげてきて、「いや、やっぱり、自分の自惚れかも」となってしまう。

それこそ相手の一挙手一投足で一喜一憂する、というのは片恋の醍醐味?ではあるかもしれないが、あんまりずーっとそんなことを続けていると、そのうち、自分の感情にへとへとになってしまう。

2年も前に、しかも恐らく、相手にちゃんと愛されているという自信がなくって別れたんであれば、私は、その相手をちらっと見かけただけで、「今になってやっと、あなたは私だけを愛してくれてたんだと分かったわ…!」なーんて絶対思えない。要は行間を読む余地のあるものをどう解釈するか、っていうのは、結局、単に自己が投影されまくる、ってことなんだけど。
「やっぱりあれは私の一人芝居だったのね」の方がやっぱり私的にはしっくりくる。そもそも、相手にはもはや、別の女がいるんですよ。(「それぞれに待つ人の元へ♪」ってね。でもなんでそんなこと知ってるんだ?)

疑心暗鬼とは、要は自信がないってことで、 結局、私の長らくのコンプレックスというのも関わりがあるんだろうなぁ。つまり私は自分の女性性というものに自信がなかった、ということなんだけど。
おしゃれしたりとか、そんなことに自分が関心を持つ、ってこと自体、人に笑われそうな気がしてたもんなぁ。
とりあえず、自分のことを知っている人があんまりいない高校へ進んで、ちょびっと自分を変えようとしてみたがそんなに上手くはいかず(まぁ少なくとも男の子と軽口たたけるようになった、という進歩はあったな)更には全然知っている人がいない大学へ進んで、ハタチ前後からは化粧もし、しかしそれなりにコンプレックスから自由になったのはようやく24,5になった頃から、という気がする。その頃、化粧品で顔が腫れ上がるようになってしまい、使える化粧品を根気よく探すなどという気力もなく、化粧はしない人間になってしまったが、女性的なるものへのコンプレックスからは既に解放されていたので、化粧をやめたことで何かが変わったとは感じなかった。

ま、端的に言ってしまえばアレだ、25前後の頃から、自分の胸中で長々とあーだこーだやるのは止めて、とっとと現実的な男女関係に持ち込むなら持ち込む、ダメならダメ、と、片恋に時間をかけずに行動できるようになった、ということで、「私なんかどうせ女らしくないし…」とかいうウジウジともおさらばした、ということだ。

それで現在はと言えば、うちの夫は、分かりやすくあろうとしてくれる人なので、私も、相手の気持ちが分からなきゃあーだこーだ考えず聞けばいい、ということで気は楽だし、なによりベースにはきちんと愛し愛されているという自信があるので(おっと失礼、惚気てしまいました)多少分からないことがあっても気にはならない、という意味で本当に居心地のいい関係なんである。
(当然、その関係を維持していくためにはお互いの不断の努力が必要である、ということは二人とも理解しているつもりですよ。)

で、じゃあ、竹内まりやの解釈はどうなってるのよ!と言えば、つまり、20代前半までの自分の感情がどこかに冷凍保存されていて、こーゆーシチュエーションの歌だと、思わずこういう解釈になってしまうんだわ、ということかも。
というか、基本は私は疑心暗鬼型の人間のまんまなんだけど、うちの夫は私を疑心暗鬼に陥らせないありがたい人だ、ということですか、結局。

ちなみに、ネット検索すると、この「駅」という歌に関しては、色々な人が色々な解釈を示していて、読んでいるとかなり面白いです。しかし、それはそれとして、ここのメロディ、多少無理をすれば「私だけを」と、6音載せられなくもないと思うんだがなぁ。(「わたしーだけ♪」を「わたしだーけを♪」に。)ま、のせずに謎を残したからこそ、いろんな人が自分を投影できる名曲?になったのかもですが。
by mmemiya | 2007-11-22 23:01 | 日々雑感