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裁判は原因究明の手段にはなりえない

福島の事件に、無罪判決が下りた。

亡くなられた方には、改めて、心からご冥福をお祈りしたい。

判決そのものは、これまでの様々な情報や今回の判決要旨を見ると、妥当なものだろう、と思える。
ただ、残されたご家族としては、今なお行き場のない思いを抱えておられるようで、無理からぬことではあるが、ご本人達にとっても、苦しいことだろうと思う。

以前、医師であるabsinth先生が当ブログに、以下のようなコメントをくださった。

<患者さんが亡くなった時私は恨まれても仕方ないと思っていますし、自分が同じ立場であったら同じように恨むだろうとも思います。恨まれる以上に自分が救えなかったというそのことによって医師は十分苦しんでいるのですし、そこに恨みが加わったからといってどうということはありません。それはたいした問題ではないのです。>

しかし、生涯そんな恨みを強く感じ続けていく、というのは、恨む当人にとっても、辛いことではなかろうか。
どんなに手立てを尽くしても、命が救えない時があり、お産で亡くなる人がゼロになるということも、きっとない。それは「運命」としか呼びようのないものではあろうが、他人が「運命だ」などと、遺された人々にしたり顔で言ったところで、その人々の苦しみが癒えるはずはない。苦しみとは、どんな種類のものであれ、時間の流れの助けを借りながらも、苦しむその人自身が乗り越えていくしかないものだろう。

「どうしてこうなってしまったのか」「本当のことが知りたい」と、こうした場合に、遺された人が思う、というのは、これまた、ごく自然な感情だ。しかし、残念ながら、裁判というのは「本当のことを知る」手段ではないのだろう。それは、分かっている人にはきっと自明のことなのだろうが、私は今回の事件の経過を追っていて、改めて、強くそう感じた。裁判は原因究明の手段ではない、と。

裁判とは、法に照らして、ある人が有罪と呼べるかどうか、を判断する場でしかない。有罪であるかどうかを検証する過程で、今回起こったことは防ぎえたことなのか、とか、なぜそうしたのか、といったことを検討する場面はあるだろうが、原因そのものを究明することは、そもそも裁判の目的ではない。「なぜ起こったのか」ではなく「起こったことは過失によるものなのか故意によるものなのか偶然によるものなのか必然だったのか」と言ったことが、裁判では主眼となるのだろうから。

そうした意味で、今回の裁判は、恐らく、被告にとっても遺族にとっても、不幸なことだった、と思う。

原因究明のための第三者機関を作る、というのも、言うはたやすいが、実際にはなかなか難しいことのようだ。だが、それにしても、「本当のことを知りたいから裁判に訴えるしかない」という不幸な誤解(と言い切ってしまおう)を変えていかなければ、この種の事件は無くならないように思える。

ところで、日経のヘッドライン<帝王切開死に無罪 医師が現場復帰に意欲、遺族「残念な結果」>という書きぶりに嫌な感じを受けるのは、私だけだろうか。
しかしながら、このような経験をされてなお、K医師が臨床医を続けるお気持ちがある、ということに、私は心を打たれた。

どうか、遺族にも被告にも、一連の出来事で受けた苦しみを、少しずつであっても乗り越えていって欲しい、と願うばかりだ。

追記:8.22 刑事事件だというのにご遺族を原告と混同しておりました…すみません…
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by mmemiya | 2008-08-20 23:22 | 日々雑感